白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

宇宙の果て 1

2005-11-14 | 哲学・評論的に、思うこと
あたまの体操。
宇宙の果てとは、どこだろう。





キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、これら一神教においては
超越的唯一神が世界を創ったのであるから、
すべては神が知っているが、それを人間は知ることは出来ない。
パスカルのいう「神にも原子にもなれぬ中間者」である。
これに対し、インドのリグ・ヴェーダ賛歌によれば、
創造主自身が、どうやって世界を作ったのかわかってないかも
しれないらしい。





回遊式の水槽に、たくさんの魚が泳ぐ。
魚達にしてみれば、必死に前の魚を追い越している。
しかし、前の魚を追い越しても、抜かした瞬間、そいつは一番ビリ。
円筒形の水槽だから、同じところを必死にぐるぐるまわっているだけ。
進歩は、螺旋階段のように進むという。
ある方向から見れば進んでいるように見える。
しかし別の方向から見れば、同じところをぐるぐる回っているだけ。
遺伝子の構造が螺旋なのは、偶然なのだろうか。
必死に努力して追いついたように見えても、実は何もかわらない。
追い越しても追い越しても、一番ビリ。





ブッダの言葉。
自分が何よりも大切だと思う人は、こうすればよい。
他人もまた、自分が何よりも大切なのだから、
そのように思いやり、他人を大切にせよ。





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先日、NHKで放送された立花隆の脳科学リポートを視聴した。
ヒトゲノムが解読されたことで、遺伝子工学分野は一つの大きな結節点を
迎えたといえるだろう。
しかし脳科学分野における「神経工学」の現状、その急速な進展には
それ以上に大きなショックを覚えたものである。
立花隆が述べていたように、人間、という存在を根本的に改定しなければ
ならなくなるのではないか、というアイデアがわたしを襲う。





番組で放送されていた内容を略述すると、
不治の病とされていたパーキンソン病(手足が不随意に震え、
身体の運動機能が損なわれ死に至る病)の原因が
脳のある一部から発せられる電気信号の異常であることが判明し、
患部に電極を当てて微弱電流を流し、異常信号を抑えることで
簡単に治癒してしまった例、
うつや統合失調症などの精神疾患も、脳内伝達物質の異常分泌が
引き起こすものであり、この分泌を促す電気信号を発する脳の一部に
電流を流すことで疾患を快癒させた例、
こうした「奇跡」的な事例が数多く取り上げられていた。





例えば、頚椎損傷により全身麻痺に陥ったひとがいる。
彼がある行為をしようと念じるときに、脳から全身に伝えられる
電気信号を解析し、その信号に応じて作動・操作の可能な
コンピュータシステムを構築したところ、
このひとが「こう操作したい」と念じただけで、コンピュータを
思いのように操作出来るようになったという。
こうした技術も、すでに出来上がっているというのだ。





また、同じように、人間の頭に電極を取り付け、
ある行為を行うのに必要な信号を送信し、
同時に快感中枢を刺激してやることで、
「人間をラジコンのように、ロボットのように」
操作することすらも可能になりつつあるという。
実際に、それまで重い精神疾患に苦しんでいた人間が
嘘のように快癒している姿や、
人間の指令のままに操られる実験用マウスには、
ショックを受けざるを得なかった。
ついに、人間の脳を「洗脳」といった概念、
いわゆる知的営為によって内側からコントロールするのではなく、
純粋な電気信号のやり取りだけで、外側からコントロールできる、
そんな時代がやってきつつあるのである。






人間がかんたんに幸せになる方法がある。
コカイン、マリファナなどのドラッグをきめて
多幸症に陥るか、
脳の快感中枢に電極を当てて刺激するのだ。
サルは脳の快感中枢に電極を突っ込まれてスイッチを渡されると
衰弱するほどスイッチを押したという。
しかし、サルのようにやる、という言い方があるように、
肉の快楽、精神の享楽は、必ず身を滅ぼす。





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さて。
脳にまつわるいろいろな記述を、歴史的に、横断的に。





精神疾患、例えば自閉症などの病気は時として
驚異的な記憶力をもたらすというけれども、
受精卵から胚、胎生の段階へと進む人間の誕生の過程において、
胎児は、その誕生の過程においてすべての生物の進化の過程、
もっといえば、地球誕生からの46億年の歴史を
凝縮するように辿っている、ということがよく言われる。
ユングによれば、人間の無意識の中には
生命進化のすべての過程が眠っているそうだが、
ペンフィールドという外科医の行った実験によれば、
大脳の側頭葉に電流による刺激を与えると、
当人が忘れてしまっていた記憶が、視覚や聴覚のみならず、
触覚、嗅覚を含めた五感を含めて生生しく、まさに、
「いま、そこにいるように」蘇るという。





人間の脳が、夢や抑圧を通して経験した事実を記憶として編み直し、
分類して整理し、時に廃棄したり捏造したりしているのは
よく知られたことだ。
人間の脳を図書館としてたとえてみると、
人間が五感を通じて触れて収集したすべての情報、
あるいは脳の作用として妄想的に経験された情報は、
そのごく一部が記憶という名前の「本」として編集され、
日常よく使うものはすぐに引っ張り出せるように手元の本棚に、
あまり使わないもの、あるいは不要と判断したものは
書庫の奥深くにしまわれている、という感じだろうか。
つまり我々の中には、我々の経験した事実のすべて、
思ったことのすべて、直感のすべて、感情のすべてが
保存されているらしい。





ただ、それらのソフトを自由に再生できる技術は、
人間にはインストールされていない。
だが、電極刺激によって不随意にではあるが、それを
自らの意志によらずして再生することは出来る。
逆に、それらのソフトが本人の意思にかかわりなく
勝手に再生されている状態が、幻覚や幻視を初めとする
精神疾患の諸症状と考えることも出来るだろう。
人間が死ぬ前には、自分の一生が走馬灯のように見えるというが、
これとて、生命の最後の燃焼が脳に蓄えられてきたすべての情報をも
燃焼させるがゆえに生じる現象なのかもしれない。
一個の生命体としての人間がそれまで見聞きしてきた事柄ですら
そうであるから、
それを集積したら、人類史、もしくは地球史のすべてが
記述できてしまうかもしれない。





仏典から見ると、文殊菩薩は、いわゆる
形而下の実際的な知恵である文殊をつかさどる仏という意味であり、
いわゆる智慧の仏、学問の仏として信仰を集めているが、
その対概念としての虚空蔵菩薩は、いわゆる形而上の無意識や
記憶の源泉である「虚空」を孕んだ仏で、
そこからくみ出される無限の智慧をつかさどる存在である。
この仏への信仰において、虚空蔵求問持法という、仏教における
術の概念がある。これはいわゆる記憶術の一種であり、
驚異的な記憶力を人工的に起こそうとする試みである。
虚空という語は、サンスクリットで「アカシア」という。
旧約聖書の偽典である「エノク書」には、
人間及び地上に住むすべての生命が創造より未来永劫に至るまでに
営む事柄のすべてをかきつくした「天の板」の存在が語られているし、
当然イスラム教にも、アラーのみが見ることの出来る
「すべて」を記録した板があるとされている。
これらは大まかに言って、「アカシア」=虚空のことをさしていると
いってもいい。





このように、無意識に蓄えられた膨大な記憶については
世界各地の宗教がすでに言及し、一つの像として確かに結んでいる
ことがらである。
自然科学の進展は、埴谷雄高が述べるように、
「人間の想像力が科学に試される時代」の到来を意味していた。
虚空とは無意識であり、その総体は
葬り去られたものたちの世界であるといってもいいかもしれないが、
人間が想像力をもって営んできた世界認識の歴史について、
これを脳科学が、「文殊の智慧」たる自然科学を用いて解明し、
それに近づきつつあるのだ、ともいえるだろう。
イェイツの「記憶術」は、いわゆる場所の記憶の問題であり、
時間と言葉が交差する場所においてはじめて
記憶が生起するということを問題にしている。
いわゆる「生き字引」、並外れた記憶を有する人間への尊崇は
宗教や官吏登用の場など、古今東西にたがわぬ伝統であり、
「知」は神の名の下に、人間の肉として脈脈と受け継がれてきた。
いまもなお、国家や大学や法曹界などにおいては有力である。
それはあくまでも人間における権威であった。
場所の記憶とは、人間がそこに存在している証のことであった。





宇宙の果てとは、自分自身の脳である、という言葉もある。
また、人間は、宇宙が自分自身の姿をみるために生み出した
自分自身の眼だ、という言葉もある。
少し回り道をしよう。




下に続く。

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