京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

あとまで残るひびき

2022年08月15日 | 日々の暮らしの中で

毎年終戦記念日には、昼の12時に合わせて鐘楼の鐘を撞く。鐘の音が消えかかるころに次の一つ、そしてまた一撞き…と。

折しも数日前、茨木のり子さんの詩「わたしが一番きれいだったとき」に触れる機会があった。私の母も茨木さんとほとんど変わらない年代を生きていた。こういう何かの機会を得て、平素は取り出すことの少ない手持ちの詩集や詩人のエッセイ本を開くことになる。

西原大輔さんの指摘が引用されていた。
「最終行の控えめな『ね』は、決意表明の気恥ずかしさを打ち消す効果を生んでいる」とあった。

一方で、この詩については以前に谷川俊太郎さんが指摘されていたことを覚えていた。
「書き過ぎているのがもったいない。最後の一節はいらない、というのが私の意見」だとあった。“最後の一節”とは、小池昌代さんが「私もくどいとか、念押しはいらないと言われる」と続けておられたので、「ね」の扱いと理解した。

詩では「連」という表現をするが、時間を置くや、一節とは、〈だから決めた〉以降「ね」までを言うのか?と思い始めた。
西原さんと谷川さん両者の言を念頭に、何度か読み返す。盆のお参りがあれば挨拶させていただきに出るが、ぼんやり考える時間はたっぷりあった。

詩作への姿勢もあろうし、仮に一語であっても、用いた作者の感情や思いが存在する。
どう読むか。最後は手渡された読み手に託される。


韻文と散文の違いはあるが、「謂ひおほせて何かある」という芭蕉の言葉に学びたい。
河野裕子さんが言われた〈「結句病」。書き足すと説明句になりやすい。説明句に味わいはない〉とか、〈書き過ぎると大事なものが消えてしまいます〉は宇野千代さんだったか。そしてまた山田稔さんは〈言葉の過剰が芸を滅ぼす〉と記される。

若くはない今になっても、ようく考えなくっちゃと心の内で念を押した。余韻のない文章はつまらない、だった。


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