京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

花一輪たりとも辞す

2022年08月17日 | 日々の暮らしの中で
茨木のり子さんの世界に水を向けられて、先日『一本の茎の上に』を拾い読みしていた。「花一輪といえども」と題した小文がある。

長く交遊のあった木下順二さんが母親を亡くされたことを知り弔文を送ると、「勝手ながら花一輪といえどもご辞退申し上げます」の一文を含んだ挨拶文が届いた。別れの儀式などは一切行わない。生前から母と何度も話し合い、約束していたことだとあった。気概に打たれ、また、花一輪をさえ辞すために要ったであろうエネルギーの大きさを思いはかっておられる。
茨木さんは、この葉書を「いつの日にか私のためのよき参考に」と大事に保存されたことが知れる。


そうしてご自身も別れの手紙を認めた。

「あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにしてくださいましたことか」

こんな言葉があるらしい。生前に印刷し、甥夫妻に発送を託したという。
死後ひと月、交流のあった人のもとに葉書が届いている、と2006年3月16日(日付メモが違っていたかも…)の読売新聞コラム「編集手帳」で読んだ。その切り抜きは、この本に挟み込まれて今も残る。このようなお付き合いをしてこれただろうか、と振り返る。

「あなたのおかげで満ち足りた生涯、どうか思い煩ってくださいますな」

「永訣は日々の中にある」。
〈死とは出会ってきた人びとに「さよなら」を言うことだ〉という岸本英雄さんの言葉に惹かれる。自らの生涯、どう締めくくれるだろう。
盆さ中、うちつける雨音を聞きながら思いあぐんだのは、こんなことだった。

      椿の実の赤さに魅かれて一週間ほど花瓶に挿しておいたら、
      正面裏側がはじけて種が現れた。切られても、このエネルギー。
      

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