京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

色なしの内側に朱(あか)色が

2024年05月17日 | 日々の暮らしの中で
楓に花が咲いて

やがて種をつけた赤い2枚の羽は、くるくる回転しながら地に落ちる。
“プロペラもみじ”というのだと庭師さんから教わったことがあった。


かつて、と言ってももうひと昔も前になるが、金剛能楽堂で金剛家の能面と能装束が虫干し兼ねて展示されたことがあり、その折、展示品にまつわる宗家のお話を伺う機会があった。

ー 能装束の刺繡や織りには色糸が使われている。その色が鮮やかなうちは、それぞれが「立ちすぎる」。その個色が年月とともに退色し、自然の色合いで一つに馴染んだものを、よい装束と呼んでいます。
あざやかさを競い合い、主張し合ううちは調和が生まれにくい。長い年月が色を落とすことで、深い味わいが醸し出されていくということ、人の一生に似ているだろうか。

とりわけ印象に残ったのは、これに続く言葉だった。
「表面は朱味(あかみ)が抜けて色なしとなっても、少し糸をほぐすと内側には朱色が残っているのです」
人もかくありたいとイメージしている。


いろいろな縁に導かれて、〈私〉はできている。
人や読書から多くの影響を受け、種がまかれ、育ててきたし、学んできた。幾色にも塗り重ねられて形成された〈私〉。
父や母から受け継いで、変わらない性分はある。
また、ずいぶん齢を重ねたなあと思いつつも、ここまでの間に少しづつ対象を広げ、耕してきた私のあらゆる興味関心。それをずっと下支えする源泉が、華美さもなく、淀みそうな流れであっても、いまだ枯渇はしていないことに自分自身で気づいている。

石垣りんさんの『焔に手をかざして』を読んだとき、こんな一文があった。
「自分にとって大切なもの、心に残ることが、ほかのひとにはなんの感動も呼ばないということは珍しくない」
いいのだ、それで!と思っている。自分の感受性に気づいて大切にしたらいいのだと、ずっと思ってきた。

この種が欲しいか否か、ふと思ったのだ。
こんな新鮮な種はもういらないとも思う。その代わり内なるもの、自分にとって大切なものに心ゆくまで関わっていたい。
コメント (6)
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