狩野永徳と長谷川等伯二人の絵師にまつわる作品『等伯』『花鳥の夢』に次いで『闇の絵巻』(澤田ふじ子)を読むようになって、作品が世に出た年月にふと思いがいった。
『闇の絵巻』が1936年、『花鳥の夢』と『等伯』の連載が始まった時期は前後するが、連載終了は2012年の8月と5月でそれほどの違いはない。
ただ澤田作品から実に26年余を経ての2作品の登場になる。
同じ時代を生きた二人の絵師の半生が、三者視点は異なるが三様のロマン、物語で構築された。
画風も違えば地位も名誉も異なる。
【絵師は求道者や。この世の名利に目がくらんだらあかん】(『等伯』-近衛前久のことば)
【「心だにまことの前にかなひなばいのらずとても神やまもらむ」】(『闇の絵巻』-さきの内大臣九条稙道)
我が道を行くのが肝要と励まされるが、今を時めく永徳と肩を並べたいと苛烈な競争心に燃える。そして焦り、嫉妬。
【画技がいくらすぐれていても、それを十分発揮するには実力者の引きが要った。権力者に寵愛されれば実力が十全に発揮できる。権門冨家へのつけとどけ、ご機嫌うかがい。】
一門の繫栄のための狩野派の政治力、処世の巧みさが描きだされた。
等伯殺害を企て、長男久蔵の命を奪う。これも組織の中で、一門のため…。
いつの世も、新しい力が興ろうとするときには必ず古いものの力がこぞってそれを誹謗する。新しい力を感じて不安に駆られるのだ。
一族の繁栄のために、権力者の意向にそうような大画ばかりを描かねばならなかった永徳。
5年余の歳月をかけて永徳とその一門が安土城で描き上げた数千枚にも及ぶ障屏絵(へだてえ)は、灰燼に帰してしまう。
この安土城での日々にはさまざまに筆が費やされ、興味深かった。
あらかた失われた永徳の絵に比べ、等伯の絵は多く残っており、美術史は永徳より等伯の作品に重きを置いている、と書き添えてあった。
人はそれぞれに重荷を背負い、心に闇を抱えながら、その先に光を求めて必死に生きている。
その人の生きる姿、何をなしたかが問われるのだろう。どんな地位や名誉を手に入れたかではなく。