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原キョウコ ダンスセラピーラボ

ダンスセラピーという手法を通して心身の解放をサポートし、心と身体と魂をつなぐことを目標に、研究を重ねている場です。

仙台で踊り、遠苅田で語る【1】

2011-06-20 | 徒然なるままに
18日の朝、仙台に向かった。
乗った新幹線は新車両のやまびこで、
全席指定。
立ち席となった。

郡山のあたりを通りかかったとき、
きれいに田植えをしてある田んぼが一面に見えた。
それがなんだか切なかった。

昼に仙台着。

園子さんからお招きを受けて
初めて仙台でのセッションを行ったのは
昨年の3/28で、
おかげさまで「また来い!」という皆さんの声により
夏も秋も、今年の1月もセッションをしに行った。
仙台という街も、出会う人も毎回好きになって行った。

そして、震災。

震災後、少しずつ安否が確認でき
何人かとメールをやりとりしたり
チーム仙台のKちゃんと電話で話したりしているうちに
新緑の頃、必ずボランティアセッションをしに行くからね!という話になった。
その約束が、やっと果たせた。

セッションのはじめに
話し出したら涙が出て来た。
こうして無事に顔を合せることができる
この機会を心待ちにしていたのだが、
自分でも少しびっくりした。


セッションについては
自分では反省点もいろいろあるのだが、
今回はこうして集まれる、ということが大事であったと思う。

動きや踊りを通して、
それぞれの方に今だからこその、
いろいろな気づきがあったことを分かち合えた。

ヤヨイさんから預かってきたおみやげのハーブティーを渡し、
Jさんが持って来て下さったお菓子や、
大阪で買った「北新地 呼吸チョコ」を食べた。
Hさんがチョコを見て「津波で亡くなった同僚の大好きだったチョコだ!」と言ったので
(ビックリ!)
お供えに、と少し持って行ってもらった。

仙台の街は、壊れた建物などもあったようだが、
既に修復されたり、立て直されたりしていたようだ、
震災で延期となっていたお祭りが開催されていて、
街中には太鼓の音が鳴り響いていた。

街には活気があった。

参加のみんなも落着いていた。



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東北へ

2011-06-17 | 徒然なるままに
明日、明後日と
仙台~南三陸に行って参ります。

仙台では
昨年から仙台ホリスティックセラピー研究所主催のWSに来て下さった方、
初めて参加して下さる方に
ダンスセラピーのセッションをします。



震災後、仙台をはじめとするメンバーの方々の消息が分かるまでは
本当に生きた心地のしない、落着かない日々でした。

そして消息が次々に確認でき、
電話やメールのやり取りをしている中で
「落着いて来たら必ずいきます」と約束をしました。

やっとその希望が叶います。

ゆっくりとシェアをしながら、
そして生き延びてくれた
たくさんの身体の声に耳を傾けながら
いたわり、よろこび、踊り、
共に過ごす時間を愛おしみたいと思います。

そして津波の被害を受けたある方に
避難所を訪れたいということをお伝えしたら
快く承諾して下さいました。

南三陸に一緒に行く
遠藤園子さんはクリスタルボウルの演奏をされます。

わたしは、避難所にいる方たちの様子を見て、
何を提供するのがベストかを決めようと思っています。

どこのセッションでもそうするように、
その場にいる方に沿うことができるかどうか。
いつものように、それを大事にしながら。

GW後はボランティアの訪問も少なくなっているようです。
アルコール依存に陥っている方も少なくないとの話も聞きます。
自殺も多くなっていることに、本当に痛みを感じます。

継続的なサポートが
本来はいちばん望ましいのですが、
まずは今回行ってみて状態をできる限り見て、聴いて、把握したいと思っています。


…ですので、
今週はエネルギーをためています(笑)
五感も直感も開き、
悲しみも喜びも全身で受け止めることになると思います。
これも、いつも通りですが。


まだまだ余震の心配があります。
皆様も備えを万全にされますように。


そして、
原発の現場作業をする方達の安全が守られますように。
原発事故の収束が、一日でも早くなりますように。
亡くなった方の魂が安らかな場所におられますように。
生き残られた方が、希望を取り戻されますように。


祈りとともに、行ってきます。

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悲しみは祈りになり、祈りは愛になる

2011-04-21 | 徒然なるままに
少しほっとすると、

悲しみの気持がわいてくる。

特定の誰かや、何かに、ということではなく。


ここでわたしが言う悲しみとは、
感情的なものではない。

同情などではもちろんなく、
共感に近いか。

もっと純粋な何か。

水のようなもの。

純化されたもの。



そして、

悲しみは瞬時に祈りに転化されるのも感じている。


もうすぐ27回忌を迎える亡き祖母は、
祈りのひとだった。

長崎の原爆で被曝した叔父の看病を必死でおこない、
叔父はその後、昭和の高度成長期を支えるサラリーマンとして
バリバリ働き、よく食べ、よく飲み、明るく笑い、人の世話をよくし、
天寿を全うした。


叔父を後ろから支えたのはなんといっても祖母だったのだな、と思う。


子供の頃、祖母の家を訪れると
朝は、必ず神棚を拝んでいたのを思い出す。

そして、「みんなが元気でいるようにといつもお祈りしているのよ」と言っていた。


ここ何年かのわたしにとっても、
祈りは日常の中のひとつになっている。
全くご大層なモノではなく。

いつからか、

踊りも祈り。

悲しみも祈り。

になった。



なにか、深々と頭を垂れたい気持ちになるんだ。

何か大きなものに対して、畏敬の念を感じているんだ。



そしてそれは、

この美しい星に生きている限り

誰もが忘れてはいけないことだと思うんだ。



大切なことや大切な人に

大切だよ、とちゃんと伝えることなんだと思うんだ。










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なぜか今感謝の気持でいっぱいなんだ。

2011-04-13 | 徒然なるままに
震災からこの一ヶ月、
毎日の報道に一喜一憂して来た。

そして、
これ以上災害が広がりませんように、
被災地の方が絶望しないでおられますように、
亡くなった方の魂が今は安らかでありますように、
原発の現場で身を挺して働いていて下さる方が
どうぞ守られますように、
子供たちの未来が守られますように、
と毎日のように祈った。
祈ることで、気分が落着くという効果もあった。


今日は
シンプルに、自分の気持の内側の奥底まで見つめてみた。


すると、
意外なことに
この美しい地球に生まれて来たことへの感謝の気持でいっぱいになって、
涙が出て来た。
悲しいとか、嬉しいとかではない涙。
震災以後、こんなに涙が出て来たのは初めて。

この一ヶ月、
辛い気持でいっぱいだったので、
感謝の気持が出てきたことにびっくりしている。

そして、
自分が死ぬそのときまで、
ひとが自分を正直に生きる、
ということのお手伝いをして
役立てたらなあ、とも思った。


わたしはがんサバイバーで、
二つのがん、5回の手術を経験している。

がんのプロセスからは、まだ3年ほどしか経っていないけれど、
一昨年や一昨々年、
生きているということは、本当に奇跡なんだなあ、と何度も思い、
そのたびに泣いた。
つらい手術や治療に耐えてくれた
この身体に何度も何度も感謝をした。
わたしの身体の一部は、
確かに「病」ということを引き受けてくれたのだ。

病室の窓の外には
大きなプラタナスの木があり、
眠れない夜などに窓外を眺めていると、
その樹の葉っぱが何かをささやいていてくれるのを感じた。


自分のいのちと、
自然の中にあるいのちが、
触れ合った瞬間だったのかもしれない。


今は、この地球に本当に感謝している。


地震というカタチで、
地球は、貯め込んで来たエネルギーを
定期的に放出している。
大昔から。

それは、わたしの身体に病として起こったことと
規模こそ違うにすれ、
同じようなことかもしれない。


思えば、
訪れたいろいろな国や場所で
すばらしく、美しい自然を感じさせてもらった。
道ばたの、小さな花にも。
今年の桜にも。

そして、人類が、好き勝手なことをし続けてごめんなさい、という気持も同時に感じている。


レベル7といわれているこの状態から、さらにどうなるのかわからないが、
この危急のときに、こんなに感謝でいっぱいになるのも、不思議な感じです。


金曜のワークショップでは、
参加された方々と
感謝の気持をシェアできたらいいな、と思っています。
「いのちの樹プロジェクト」

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蕎麦屋で一杯♪

2011-01-22 | 徒然なるままに


ヒーリングストレッチ&リラクセーションクラスで
安全、安心な素材のお菓子とお茶を提供してくれているヤヨイさんと
今年のクラスについて打合せをして参りました。

食べることと動くことと休むことは
生き物の基本です。

わたしは動くこと、休むことについての考え方と方法を
クラスの中でいつも提示しているのですが、
食べることという要素が加わると
さらに視点の広がりが出てくることがとても面白い!

あれやこれやの話を終えて、
食事に行きました。

時々伺うお蕎麦屋さんでありますが、
こんなセットがあります。



ちょっとピンぼけですが…orz

上の列 左から
たまねぎの揚げ出し
白子ポン酢
肉じゃが

中の列 左から
かぼちゃの黒ごまかけ
スペアリブ
塩豆腐

下の冽 左から
酒粕と豆腐のペースト
空豆の春巻き
じゃこきゅうり

特に、
塩豆腐は絶品!
絹ごし豆腐の上に塩昆布をのせ、ごま油をかけたシンプルな一品ですが
どれもが引き立てあい、絶妙の組み合せでした。
さっそく家でもやってみましたよ♪

このセットに
そば焼酎のそば湯割りをいただき。

しみじみシアワセ…♪♪
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喜びがあるところに

2010-11-26 | 徒然なるままに
昔、まだ実家にいた頃、
料理嫌いの母に代わって夕食を作ることが多かった。

季節や気温、体調などから
食べたいものを考え、
料理の本を見たり、
自分でアレンジしたり創作したり、
どこかで食べたおいしい料理を思い出して
レシピを考えてみたり。

今振返ると
時間やお金の心配もせずにすむ
楽しい創作のじかんだったのだなあ、と思う。

そしてそれは
ただただ純粋に楽しんでいた時間。

なんの見返りもなく
何かのためでもなくやっていた
あんな時間やこんな時間が
のちの自分の一部を作っている。

水泳の指導をしている友人が
彼女が「今でも水の中に入るとわくわくするし、とても楽な気持ちになるのよね」
と嬉しそうに語ったとき
気持がシンクロした。



誰かに喜んでもらえることは本当に嬉しい。

けれど、それが「目的」になることと、
結果的にそうなる、ということは大いに違う。

自分自身が何かを行っていて
喜びがあるかどうか、
ということが
dutyの奴隷にならない、いちばんの指標であるかもしれない。

介護の学校の生徒さんに
「この仕事をやっていて、
辛かったり苦しいときがあっても、
それでも自分自身に喜びがあるかどうか」が
燃え尽きないためにもとても大事なことなのだ、と話すことがある。

もしも
誰かのために、
何かのために、
ということが
100%になってしまったら、
そういう自分を疑うことも必要、なのです。

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死と再生

2010-11-12 | 徒然なるままに
大阪での
最終のセッションでは
即興を踊ってもらおうと思っていたが
テーマで大分悩んでいた。
が、さまざまなシンクロニシティがあり
新月ということもあり、
「死と再生。あるいは誕生」に。

東京の、自分のWSでは何回か行っているが、
テーマがテーマだけに
どこまで行ってしまうか分からない怖さもある。

迷っていたのは、
このテーマでやるべき、とわたしの直感は言っていたけれど、
このテーマが重すぎるのでは、
という方がいそうに思えたからだ。

どこまで深くダイブしたとしても
きちんと現実に引き戻って
着地してもらうべくサポートするのが
自分の仕事の重要な部分でもある。

ひとりひとりのなかにひそむ世界を尊重し、
何かあってもそれを引き受けるつもりで、臨んだ。


セッションの最初に、持って行った本を
役者さんの男性が朗読してくれた。

長田弘の「詩ふたつ」という本である。
今回参加してくださった、ある方からいただいたものだ。

死と生をテーマにした二つの詩から成る作品で、
クリムトの描く森や樹の絵が
ふんだんに盛り込まれている。

このセッションのテーマを語り、
無理にやらなくてもいいことを伝え、
少しずつ、泉に足を浸すように
それぞれがそれぞれの世界に入って行った。

…結果は、
プロセスを信じて大正解、だったように思う。
シェアのときにそれが感じられた。

参加したすべての方にではないが、
何人かの方にはこのテーマがとても必要だったのだ。

死して、また甦る。
大きな心的エネルギーを使って、
それを成し遂げたひとがいた。

いのちは死で終わるものではなく、
花がしおれ、やがてこぼれ出た種が
世界のさまざまなところに飛んでいく、
というイメージが出て来た、というひともいた。

自身の内的世界にアクセスし、
それに素直に沿って行くとき、
身体はただの器ではなく、
タマシイとともに踊っている。

そんなとき、
ひとは
とても美しく、
崇高で、
ただただ畏敬の念を感じる。


今回も得難い場に立ち会わせていただきました。



生きている間に
象徴的に「死」を体験すること。

それは自分もあるワークで体験したが、
今回行ってみて、
これは誰もが体験してみたらいい、
と確信できた。



コーディネイトしてくれた
大正まろんさん、
いつも楽しい打ち上げを共有できる 劇団「流星倶楽部」メンズ、
素敵な場所を貸してくださったウィングフィールドさん、

そして参加者の皆様へ
あらためて感謝です。


追記。

セッションの翌日は
京都の貴船神社へ。
清らかな川の
せせらぎの音がそれは心地よく、
とても柔らかな、やさしいエネルギーの場所で、
それをしっかりといただいて参りました。
水はいのちの源でもありますね。



そんなこんなを終え、
本日は静かに家で過ごしておりました。
誕生日だけれど、
特別なこともせず、
家でごはん。

思いのほか、
いろいろな方から
誕生日祝いのメッセージをいただき
びっくりです。
ありがとうございます。

この何年かで
わたし自身も
死と再生を体験しての
今日の日、
半世紀(笑)を迎えることができました。


静かな水のような一日でした。


やがて訪れる死をも包括しての、

再生記念日です。



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SWEET HOME,大阪

2010-10-31 | 徒然なるままに
いよいよ大阪WSが迫って来た。

大阪では過去にも何度かWSを行って来ている。
でも、いつもとんぼ帰りだったり、
市内の観光もほとんどせずにいたのでした。
(あ、豊中では、なかなかいい感じの地元な居酒屋を教えていただきました!)

今年の春に心斎橋の「ウィング・フィールド」という劇場でWSを行ったあと、
主催してくれた劇作家のまろんさんや、劇団「流星倶楽部」の役者さんたちが
いろいろなエリアに連れて行ってくれた。

役者は皆、といってもいいほど飲むし、
いい店を知っている。

いい店というのは、
独特の雰囲気があって、なおかつ安いということです。わたしの場合。

小洒落たダイニングバーもいいけれど、
どっぷりとその土地の匂いがする店に行くというのは
旅先の大いなる楽しみで、
一緒に飲める相手が役者であれば、
もうこれはディープな世界に行くわけです(笑)

で、前回は
わたしのリクエストにより
串カツに始まり、
ディープなゾーンを続々歩き回ったのだった。


WSをやってみると
関西と関東では雰囲気が全然違う。

関西はいろいろな意味で正直だなあ、と思うことが多い。
はっきりしている。

なので、わたし自身もとても楽に、素直にいられる感じがある。

なおかつ、場所が劇場となると
それはもっと高まる。

わたしは長いこと役者をしていたし、
劇場、とりわけ小劇場でさまざまなことをやってきた。
なので、思い入れもたっぷりあるし、
懐かしい匂いのする場所なのである。

平台を積んで、舞台を設営したり、
暗幕を張ったり、
劇場に染み付いているドーランの匂いを嗅いだり。

まずは環境が身体の記憶を呼び覚ます。

春にウィングフィールドで行ったときは、
そんな記憶やドキドキ感も大いに混じっていたと思う。



あの場所に、またこの身を置いてみる。

今度はどんなひとたちと会えるのだろう。

どんな展開になるのだろう。

そして、終わったあとのお酒は、
さぞかしおいしいだろうな、などと夢想する。

そして、
わたしはまた
大阪という土地の持つエネルギーと出会い、
そこに集う人一人一人のエネルギーと出会う。


中学生の頃だったか?
「サウストゥサウス」を初めてテレビで見た時
(注:上田正樹が昔いたバンドです)
自分の中の何かに火がついた。
たぶん、ゴスペルを初めて聞いたときと同じスイッチだと思う。

「SWEET HOME,大阪」を
遠い日の大晦日、「ニューイヤーズロックフェス」のテレビ放映で見ながら
一緒に口ずさんでいた、ような気がする。


あれから何十年も経ってしまったけれど、
わたしの中の「オオサカ」的なものは、
今も生きていると思う、きっと。


人間の匂い、
泥臭い匂い、
日々の営みの匂い。


それは昭和のテイストの混じった匂いなのかもしれない。

ノスタルジーではなく。

今を生きているひとの、街の匂い。




****

追記

残席些少ですがございます。
お申込みはコチラまで。
http://blog.goo.ne.jp/kyondance/e/fef0793bc057fd480455e0b16c8404c0


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ことばの贈りもの。

2010-07-16 | 徒然なるままに
ある方から、
こんな詩をプレゼントされました。



 『その人』  相田みつを

             その人の前に出ると
             絶対に うそが言えない
             そういう人を 持つといい

             その人の 眼を見ていると
             心にもない お世辞や
             世間的な お愛想は言えなくなる
             そういう人を 持つといい

             その人といるだけで
             身も心も洗われる
             そういう人を 持つがいい

             一生に 一人でいい
             そういう人を 持つといい




彼女にとって、
わたしが『その人』なのだそうです。


思いがけない贈り物を、
ありがたい気持で
いただきました。


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伊勢へ。

2010-07-03 | 徒然なるままに
春分の日に引っ越しをして、
隣の神社のまったり穏やかなエネルギーとともに
花鳥風月を愛で、半隠遁生活をしているうちにもう7月。



6月、夏至の直前に伊勢へと行って参りました。

初めてお詣りしたのはもう20年ほど前。
突発的変事が起こり、
いてもたってもいられず
ある朝思い立って伊勢にお願いごとをしにいったのです。
今ならお願いごとはゼッタイしませんが…

外宮、内宮と歩いてお参りし、
とっぷり日の暮れた道には
なぜか人っ子一人歩いておらず、
道の脇の森や神社の前を通るたび、
『ああ。確かに何かいる…』と思った覚えがあります。

今回は外宮でお礼詣りをしていた時
わたしは目を閉じていたのですが
一陣の風がさあっと吹いて
本殿の白い幕がふわりと持ち上がったと
同行の友人が教えてくれました。

伊勢も朝から大雨だったそうなのに、
外宮にいるときには雨も上がってくれました。

そのあとの二見が浦興玉神社では
風も雨も強かったのに、
不思議と海は凪いでいました。

夜は大雨となり、
翌朝も雨の中、
伊雑宮へと向かいました。
ここはお田植えの神事で有名ですが、
アマテラス様が降臨した地、という説があります。
早朝だったので人気もなく、
雨が浄めの役を果たしてくれていたように感じました。

そして内宮へ。
雨も上がり、
五十鈴川に架け替えられたばかりの檜の橋が
とてもよい香りを放っていました。


そして20年前、
お願いをしたことは
お願いをしたことも忘れた頃に
みごとに叶えてもらいました。

その状況も、
あまりにありえなかったので
当時はただ驚くばかりで
叶えていただいたんだ、と気づいたのは
ずっとあとのこと。
神サマは「本当に」お願いを聞いて下さるのだ、
と初めて感じた出来事で、
背中の毛が逆立つような感覚でした。

やっとお礼詣りができ、
肩の荷が下りた気分でもあり。



よっぽど危険なところを間一髪でかわしたとか、
いのちが助かったということでもない限り
日常の中の(小さな)奇跡というのは
気づかないことも多いのでは、と思います。

そして気づき始めると
いろいろなことが見えて、感じられてくる。
偶然に見えることも偶然ではないし、
つらいことでも
ほかならぬタイミングで
与えられたことなのだ(それでもつらいけど)
と受け入れる覚悟もできてきます。


3次元的な視点でモノを見ていると、
人との間にしか意識が向かなくなりがちだけれど、
もっとマクロな視点で見てみると。
そういう日常の中の奇跡が
本当の意味でスピリチュアリティにあふれたことなんだな、
と思うこのごろであります。
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