古代の史跡を歩く(旧:多摩の史跡を歩く)

川崎麻生区、町田市や、他地域の史跡の記録です。

根岸古墳群(神奈川県川崎市多摩区)

2014-09-28 00:01:00 | 日記
2014.9.27

■根岸古墳群

7世紀後半~8世紀頃(古墳時代終末期)造の古墳群

古墳群の遠景(多摩警察署交差点付近より)

津久井道の多摩警察署前から一つ目の信号を北に入り、お風呂屋さんの前で左へ。
ゴミ集積場の前に、右の脇道への昇り口

竹林の入口の掲示板



竹林を通る道

道の南側に円墳が5つあるらしく、いくつか竹に覆われた小山があったが、標識・案内板がないためはっきり分からない。
(一度目は気付かず通りすぎてしまった)




No4と書かれた札。4号墳を示すものかどうか不明


竹林の終点に三峰神社


【★☆☆ 遺跡マニア向き】

(川崎市多摩区枡形4丁目)

落川遺跡(東京都日野市)

2014-09-16 08:18:38 | 日記
2014.9.14

■落川遺跡

川崎街道と野猿街道の交差点 (一の宮) から野猿街道を北に行き、京王線の踏切を越えて一つ目を左に入ると、都営住宅の片隅に三角形の広場



7世紀から9世紀にかけての約30の住居跡が、舗装上に 色分け表示され、それぞれ年代を示す金属板が張られていますが、残念ながら着色が褪せており分かりにくい。

住居跡の一例

銘板の一例

広場入り口の説明板

広場内奥の説明板


広場内手前の説明板。
文字・図が褪色して判読困難。解説文のみ下に記す。

「東京都指定史跡 落川遺跡

落川遺跡は、1977年(昭和52年)12月、都営・落川住宅の建設工事中に発見されました。遺跡の範囲は、隣接する多摩市にまで広がっており、その面積は約700,000㎡以上と考えられています。多摩市側は一の宮遺跡といい、両市にまたがった場合、落川・一の宮遺跡と呼んでいます。落川遺跡の周辺は、多摩川や浅川により形成された自然堤防や沖積微高地が発達しています。
ここに住んだ人々は、たびたび起こる洪水や冠水に対し、その地形を生かし、高度な治水技術を駆使し、居住地・農地を確保して暮らしてきました。都営住宅地内で発見された遺構には、竪穴住居約500軒を始め、井戸跡、鍛冶炉跡、溝跡、畑跡などがあります。
それらは古墳時代から平安時代にかけて営まれ、たくさんの土師器や須恵器、灰釉陶器、中国製の磁器などの土器のほか、農具や武具、日常品をはじめとする豊富な鉄製品、木製品、石製品など、さまざまなものがあります。このように、落川遺跡は東国を代表する古代の大規模で貴重な遺跡です。

名称:東京都指定史跡 落川遺跡
所在地:日野市落川819
指定年月日:1987年(昭和62年)2月24日
指定面積1,250㎡」

(日野市落川819 )

百草八幡神社・百草観音堂の仏像(東京都日野市)

2014-09-14 14:41:11 | 日記
2014.9.14

■百草八幡神社 阿弥陀如来座像(国重文)

鎌倉時代(1250年)の銅像。本殿脇の小さなお堂の中の厨子に安置されていました。

像高40cm程の、黒光りした整った形の銅像。番をされている係の方が、奥にある像がよく見えるように時々、懐中電灯で照らしてくれる。

パネル

実物は二重円光の光背あり。

大きさ・材質は違うが、制作年が三年違いの府中市善明寺「鉄造阿弥陀如来像(像高178㎝、1253年造、国重文)」と、衣紋の形がそっくり。

背面の銘文

敬白冶磨 金銅影像 法躰弥陀 座光三尺六寸 奉為皇帝 日本主君 当国府君 地頭名主 御願円満 安穏太平 信心法王 子孫平安 悉地成就 師長父母 二親亡魂 助成合力 同共往生 乃至法界 平等利益 建長二年 大歳庚戌 孟夏之天 七日壬寅 南閻浮堤 日本武州 多西吉冨 真慈悲寺 施主源氏 願主仏子 慶祐敬白

説明板

吾妻鏡の2ヶ所で触れられ、かつてこの地にあったとされる真慈悲寺(しんじひじ)の本尊であったとされる。

毎年9月第二日曜日の神社の祭礼時に開帳されるそうです。

神社伝来の古墳時代の鉄剣も特別展示

神社の本堂

(日野市百草867)

■百草観音堂

百草八幡神社から南に坂道を300mほど南に降りると右手に小さなお堂


堂の金網をはったガラス越しに、堂内の像が拝見できる。堂前の紹介パネル

左から、
・大日如来座像(木像、平安時代、12世紀)
・阿弥陀如来座像(木像、鎌倉時代、14世紀)
・十一面観音立像(木像、江戸時代、18世紀)(下記「聖観音立像」の前立ち)
・「聖観音立像」(木像、平安時代、12世紀) (厨子内にあり非公開。12年に一度、卯年に開帳)
・二体の僧形座像(木像、江戸時代、18世紀)

天井に張られた幕には「真慈悲寺 弥陀如来」と書かれているそうです。

説明板