名古屋市内つづき。
およそ半年ぶりの参拝です。
じつは、氷上姉子神社 ちかくの大高駅からJRで熱田へ来たところで急用が出来てしまい、
泣く泣く帰宅。
翌日あらためて熱田さんへ来たという・・。
(でもまだ市内で助かった。これが長野とか奈良だったら泣くに泣けない。)
熱田さんは何度も来てるんで、今回は写真は省略気味にして
ひと通りお参りを済ませます。
そう言えばこちら、尾張国三ノ宮なんですよね。
なんかイメージ的に一ノ宮な気がしてしまうけれど、
一ノ宮は、愛知県一宮市の真清田神社 。
9時ちょい過ぎだと、境内も人が少なくて静かです。
ところで、コチラ でもあげましたが、熱田神宮といえば、元・尾張造り。
明治26年に、お伊勢さんにならって神明造に替えた神社です。
もちろん神明造も大好きです。 とても。
まさに、神社って感じがしますもんね。
千木の切り口が垂直+鰹木が奇数 → 男神
千木の切り口が水平+鰹木が偶数 → 女神 (※絶対ではない。)
とか、謎解きみたいで面白いので屋根を見るたびに楽しんでますし。
ただ、せっかくの尾張造りをなくして別ものに造り替えちゃうのは勿体なかったわねー・・(>_
ちなみにこれ↓が、その尾張造りだったころの社殿。
あぁ、めっちゃ好み・・。
それから、
戦災で姿を消したものの一つに、鎮皇門(旧国宝)があります。
鎮皇門は現在の西門にあたる門で、朱鳥元年(686)に創建されました。
もとは天武天皇宸筆の扁額があったそうですが、正応4年(1291)に炎上し、
その後、後伏見天皇から勅額を賜ったのだけれど、慶長初年に再び焼失。
慶長5年(1600)に加藤清正が改築し、貞享3年(1686)徳川綱吉が修理を加えましたが、
近代になり、戦災で焼失。
現在に至る。
これが現在の西門です。
以前はここに鎮皇門がありました。
(左に観光バスが停まってて中国人観光客がわんさかいて凄かったので、引きの写真とらず。)
そして、こちらが鎮皇門。
空襲で焼失するまえのお姿です。
こんな立派な門があったのですね・・。いちど見てみたかったな。
(巳さんのお食事)
ついでに、昔の真清田神社がこちら↓。
舞殿式の拝殿すてきーっ♪
と思うと同時に、今も昔もハトいっぱいってのが地味に笑える。
御祭神の熱田大神は、草薙剣の神霊とされています。
ですが、創建経緯からすると日本武尊との関わりが大きいので、
熱田大神=日本武尊とする説も根強いようです。
熱田大神=日本武尊なら、
熱田大神の荒魂を祀っている境内の一之御前神社には、
瀬織津姫さんはいらっしゃらないと言うことになっちゃいますね。
熱田大神=天照大神であればこそ、
天照大神の荒魂=瀬織津姫 という図式も成り立つので・・・。
まぁでも神社のすぐ隣の地名は白鳥だし、
そばにある白鳥古墳の主は日本武尊、断夫山古墳は宮簀媛命とかいうし。
普通に考えて、熱田大神=日本武尊だわな。
(実際には尾張氏の陵墓だとおもうけど)
正直どっちでも良いか。
荒魂がどなたであれ、ここは尾張氏のテリトリーなのだから。
では、その白鳥古墳へ向かいます。
道中、大好きなアガパンサスの花をあちこちで見かけました。
白鳥古墳はこの法持寺の西隣にあって、かつてはお寺が管理していましたが。
その後、熱田神宮 → 名古屋市 と管理が移っています。
お店と住宅の間を通って正面へ。
本居宣長の歌碑があります。
白鳥古墳
古墳って広いから、上から全体みないと訳がわかんないよね・・。
こちらは6世紀初頭の前方後円墳で、熱田神宮社伝によると日本武尊の陵とのこと。
能褒野に葬られたのちに白鳥となった日本武尊がここへ降り立ったという伝承に基づくそう。
でも実際には尾張氏の首長墓と考えられています。
古墳そばからついて来た揚羽蝶。 かわいい。
小学生のころ、毎年夏になると卵から育ててたのを思い出すなあ。
おかげで毛虫ニガテなわたしでも、揚羽の幼虫だけは余裕でさわれる(笑)。
つづいて、ここから北へ約300メートルの位置にある断夫山古墳へ。
白鳥古墳とおなじく6世紀初頭の前方後円墳で、愛知県では最大の規模。
熱田神宮公園内にあって、国の史跡に指定されています。
熱田神宮社伝では、日本武尊妃の宮簀媛命の墓ですが、
やっぱりここも尾張氏のお墓で、尾張連草香が主らしい。
(その娘である目子媛は、男大迹王=継体天皇 の最初の妃)
地図みると一目瞭然だけど、白鳥と断夫山の大きさにかなり差がある。
熱田神宮の言うように、白鳥=日本武尊、断夫山=宮簀媛命 だとするならば、
ダンナより、ヨメの墓のほうが遥かに大きいという、なんとも微妙なことになってしまうわね。
その②へつづく・・。