水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

新城市 1 竹生神社-1 <愛知県新城市杉山>

2015-04-04 | ├ 愛知(ひとり旅)

 

愛知県新城市杉山の片山地区に鎮座する竹生神社へお邪魔しました。

 

 

 

 

 

神社は、JR新城駅から北西へ徒歩で20分ほどの場所にあるのですが
本日はちょっと寄り道して南へ。

 

 

ここを通るのは2度目。

以前、父方のルーツ探しで作手のお寺に来たとき以来です。

 

 

 

 

橋向の交差点を南下して、石田万福を東へ。

 

 

10分程で新城古城に到着。

字が風化しちゃって読みにくいけど、
ここから約2.5キロ北方にあった大谷城の城主・菅沼定継が、この地へ移って築いたお城です。

(数年後には新城市北設楽郡の田峯城へ移り、弟の定氏が入城しました。)

 

『御城(ごじょう)』と称された大谷城に対して、この城は『新城(しんじょう)』と呼ばれ、
新城(しんしろ)の地名もこれに由来するといった説もあるそうです。

さらには奥平貞昌の長篠城から新城城(しんしろじょう)へ移ったことと区別するために、
この城を『新城古城(しんしろこじょう)』と呼称しています。

 

 

大正2年までは豊川に面した場所以外に土塁が3方に巡っていたとされますが、
現在、城地の多くは畑や宅地になっており、ちいさな土塁状の高まりが認められる程度です。

戦国期に父方傍系のご先祖さんが城の家中屋敷に居たので、
一度は見ておきたかったところ。

 

 

城跡で手を合わせて、一路北上。

再び橋向の交差点まで来ると今度は西に向かい、杉山の交差点を北へ。

 

 

杉山北の交差点にある杉山端城につきました。

 

 

新城古城の城主となった定氏は、1562年の石田合戦で今川軍に勝利したものの、
損傷が著しかったため当地に新たに『端城(はじょう)』を築いて移住しました。

(端城は、支城の意味もあるそうです。)

新城古城からは徒歩でも20分、直線距離なら1.3キロほどしかないので近いですね。

1645年の廃城後はそのまま廃墟として放置され、現況は畑地や宅地となっています。

 

 

 

では、先へすすみます。

 

 

民家の敷地内に、牛・・?

 

 

ヤギでした。

 

 

なんだか雷に打たれちゃったみたいな樹もあったり。

空はあいにくの曇天ですが、いろんな発見があって楽しい道中です。

 

 

前方にわさっと木々がみえてきました。

 

 

竹生神社にとうちゃーく。

 

 

ちなみに、この小山には『堂塚古墳』という円墳が3基あるそうです。

詳細は不明。

 

 

一の鳥居をくぐり、階段をのぼります。

坂道ニガテなわたしですが、このぐらいなら平気(笑)。

 

 

振り返るとこんなかんじ。

 

 

922年、山城国賀茂神社の祭神:建津見命(武津身命)の子孫である竹生氏が
郷司となって設楽郡賀茂郷麻野里を竹生郷椙山村に改めた際、その祖神を勧請し、
竹生天神を創建したことが由来とされています。

また、琵琶湖の竹生島神社(都久夫須麻神社)を勧請したとも伝えられているそうです。

由緒がいまいちよく分からないのでググってみると、
竹生天神はその後、徳定村の熊野神社、山村の竹生神社、臼子村の多芸神社を合祀し、
竹生神社と改称したようです。

 

 

木々の先に明るい空間が見えてきたとき、
思わず深呼吸してました。

神々しいものに出会うと、いい意味でなんか心がザワつく。

 

 

御祭神:伊邪那美尊

速玉男命、奥津事解男命、菅原道真公、素戔嗚尊、市杵嶋姫命、多紀理比売命、多紀津比売命、

正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、天穂日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命

 

 

御神木

 

 

境内側からみると御神木の大きさがよくわかる。

それにしても、境内いい匂い。わたしの好きな、神聖な場所の匂いです。

外とは空気が全然ちがいます。

 

 

 

拝殿

 

 

 

どちらの狛さんも凛々しいです。

 

 

 

それでは境内社へまいります。

 

その②へつづく・・

 

 

 


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