笠寺観音つづき。
寺伝によると、
736年に善光(禅光)という僧が、呼続の浜辺に打ち上げられた流木に十一面観音像を彫り、
その像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるとのこと。
しかしそれから200年ほどの時が経ち、小松寺は荒廃し観音像も雨にさらされる状態に。
そんな時、鳴海長者の家に仕えていた美しい娘が雨の日に観音像を笠で覆い
旅の途中で通りかかった藤原兼平が長者の家でその話を聞き、娘を見初めます。
兼平は娘を都へ連れ帰り、玉照姫と名付けて妻としました。
(俗に言う、玉の輿ってやつですね)
930年、兼平と玉照姫は笠を被せた観音像を祀る寺を当地に建立し、
このとき寺号も小松寺から笠覆寺(笠で覆う寺)に改めます。
これが、通称の笠寺観音や、笠寺という地名の由来となったということでした。
なお、古くからある玉照姫像については、
山門お向かいにある「泉増院」さん(縁結びで有名らしいです)に安置されているようです。
多宝塔(1644~7年)
阿弥陀如来像を安置してあり、愛知県下最大のものだそう。
立派な造りに感嘆しながら写真をとっていると、
「水屋には特攻隊の人が残した札があるのをご存知?」と、ひとりの紳士が声をかけてくれました。
たしかに千社札がたくさん張ってあったけど、それは気付かなかった・・
再度もどってみると、ありました。
特攻隊員の方が、出撃の前にここを訪れて貼っていかれたものだそうです。
おもわず息を止めて見入ってしまった。
よく参拝記念に貼っていく千社札とは、重みが全然違うよね・・。
この水屋は昭和8年の建造ですが
鎌倉時代の様式だそうで、その大きさもさることながら、寄木造に三本柱、手の込んだ彫り。
これほど立派なものはそうそう無いとのこと。
本当に、見れば見るほど素晴らしい。
ひきつづき、親切にも先ほどの紳士が色々と説明しながら案内して下さいます。
なんていい方だ・・(;ω;*)
多宝塔の正面にある、人質交換之碑。
ここは、竹千代(徳川家康)と織田信広(信長の兄)の、人質交換の地でもあったんですね。
知らんかった・・
さらにその左奥には、松尾芭蕉の碑がありました。
芭蕉の句碑はもう一つありますが、こっちはちょっと目立たないところにあるので、
気付く人はほとんどいないという。
ちなみに、桃青とは“芭蕉”の前に使用していた俳号だそうで、
知らないことだらけの私は感心しきり。
こっちがもうひとつの芭蕉の句碑。
その奥には宮本武蔵の碑もある。
なぜに宮本武蔵?とお尋ねすると、
武蔵はかつて笠寺にしばらく滞在していたことがあり、その時のお弟子さんのご子孫が碑を建てたのだそう。
(ちなみに、新免という苗字だったことも、はじめて知りました)
芭蕉については、1687年に笠寺を訪れています。
正門そばの六地蔵。
六地蔵はふつう六体のお地蔵さんなので、このように一柱に六面彫ってあるのは珍しく
東海地方では笠寺観音を入れて4か所ほどしか無いそうです。
こちらは池に面したところにある白瀧社。
(一瞬「白龍」かと思ったら、「瀧」。 竜じゃなくて滝なのね。)
この白瀧神は、「熱田神宮の楠御前社、柳橋の白龍神社の姉妹神」であると書かれていました。
柳橋ということは、あの白龍神社ですよねきっと。
白瀧社に隣接する弁天社。
寺社を訪れると地元の方とお話する機会がよくあるんですが
こうしてあちこち案内して下さると勉強になるし、また違った見方ができてとても楽しかったです。
親切なお方、どうもありがとうございました。
本笠寺駅に行く前に、せっかくなので少し足をのばして笠寺一里塚へ。
名古屋市内にはかつて9カ所に一里塚があったと言われていますが、
現存するのはこの「笠寺一里塚」だけです。
かつては一対の塚で、道を隔てた南側に大正時代までムクノキが植えられていたのだとか。
土を盛った上に、大きなエノキがそびえています。
足元の水仙がかわいい。
東海道をいく旅人の気持ちになって、少しのあいだ眺めておりました。