都久夫須麻神社つづき。
本殿(国宝)
御祭神:浅井比売命(産土神)、市杵島比売命(弁財天)、宇賀福神、龍神
あ、こんな所に龍さんが。
凝っていてすごくきれい。
細工の細かさ、美麗さに思わずうっとり・・。
本殿は、豊臣秀吉が寄進した伏見桃山城の束力使殿を移転したものと伝わりますが、
中心部の身舎と、周辺部の庇は、それぞれ建立年代が異なり、
これらを合体して1棟としたようです。
庇および向拝は、1558年に焼失し1567年に再建された本殿の現存部分。
身舎は、1602年に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として改造したもので、
他からの移築となっています。
本殿内部は撮影禁止です。
竹生島の宝厳寺と都久夫須麻神社は、明治の神仏分離令以来、「寺」と「神社」に分かれていますが、
平安から明治までは神仏習合の信仰が行われていました。
『竹生島縁起』によると、
今から約2,280年前の孝霊天皇25代(紀元前266年)。
霜速彦命の三子、息吹男命(気吹戸主命/多々美比古命)、坂田姫命(比佐志姫)、浅井姫命の3柱が、
高天原より近江国に天下ったといいます。
気吹戸主命(伊吹山)と争った浅井姫命(浅井岳)は、
北方へ退いたものの敗れて琵琶湖に沈み、これが竹生島になった。
これは、鉄や土地を巡っての一族の争いに敗れた浅井姫命が、
北方(おそらくは湖北の丁野(戦国浅井氏発祥の地とされる)あたり)に逃れたって事でしょうね・・。
で、社伝によれば420年に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのがはじまり。
その後、聖武天皇の勅命により宝厳寺が作られて
平安期には浅井姫命と仏教の弁財天が同一視されて習合。弁財天が祀られるようになります。
由緒は諸説ありますが、時系列にすると、
・紀元前266年、気吹戸主命・比佐志姫・浅井姫命の3柱が、高天原より近江に天下る。
・420年、浅井姫命を祀る小祠が建てられる。(=創建)
・667年、天智天皇による志賀宮(近江宮)創建時に、市杵島姫を祀る。
・731年、社前に天忍穂耳命・大己貴命が祀られる。
・738年、聖武天皇の命で行基が島に小堂を建て、四天王像を造って祀る。(宝厳寺の始まり)
・753年、浅井郡大領の浅井直馬養が『観音堂』を建立し、千手観音を納めて祀る。
(その後、浅井一族による建立がつづく。)
・平安時代末、弁才天が祀られ「竹生島権現」・「竹生島弁才天社」と称されるようになる。
・1602年、豊臣秀頼が『弁財天社(現・都久夫須麻神社本殿)』、『唐門』、『観音堂』、『渡廊下』を新たに寄進。
・1868年、神仏分離令により、本堂『弁財天社』を神社に渡し『都久夫須麻神社』と改称。
これを本殿として、宝厳寺から分離。
・・・ということで、
宝厳寺の弁財天社を、明治期に『都久夫須麻神社』と改称し分離することによって、
なんとか廃寺を免れようとしたわけですね。
現在でも都久夫須麻神社は「日本三大弁才天」の1つに数えられており、
日本最古の弁才天、弁才天の発祥地ともいわれています。
お寺と神社に分離したとはいえ、
こうして今も舟廊下でつながっている姿を見ると、両者は一体なのだなぁと感じます。
では、前回行けなかった龍拝所へ。
その③へつづく・・。