柴高の毎日

8月1日より、goo blogでの公式ブログに移行しました。

3年5組と6組の境目に隠された秘密

2017-06-15 18:36:00 | 学校紹介
 柴島に来てはや十数年。授業をやりながらいつも思っていた疑問がある。

 「なぜ教室によって、黒板下のチョーク置きの幅が異なるのか」

 「チョーク置き」とは文字通りチョークや黒板消しを置いたりするレールのことで、ある教室では黒板消しが置きやすいのに、ある教室では黒板消しが授業の最中に頻繁に落下するのだ。ということで、某日、教室をまわってチョーク置きを撮影してみた。

 32期生で「2・3-3」組を担任していたこともあり、「1組」「2組」「3組」のエリアは「幅が狭い」ことはあらかじめ知っていた。よって「3年4組」から撮影を開始する。

 3年4組 「幅が狭い」 頻繁に黒板消しが落ちるタイプ 手前の金具がない。



 3年5組 「幅が狭い」 ここも落ちるタイプ 手前の金具がある。 



 3年6組 「幅が広い」 授業がやりやすい幅広タイプ。



 2階の廊下は「3年5組」と「3年6組」の間に「幅が狭い」と「幅が広い」の違いがあることが分かった。ついでに「3年7組」も撮影したらよかったが、ここは「幅が広い」ことを知っている。

 3階の「2年5組」「2年6組」「2年7組」は、以前から「幅が広い」ことを知っている。4階に上がってまで撮影する気はないが、「1年4組」「1年5組」「1年6組」「1年7組」もきっと「幅が広い」はずだ。

 どうやら「3年5組」と「3年6組」の境目に何か秘密があるのかもしれない。

 そして「わたし」「俺」「僕」「自分」「わし」「我(われ)」「小生(しょうせい)」「吾輩(わがはい)」「拙者(せっしゃ)」「余(よ)」「麿(まろ)」「ミー」は、その境目にある不可解なラインを柴島在職十数年目にして初めて発見したのである。

 ※ちなみにここで「朕(ちん)」は使ってはダメ。「皇帝が自分をさして言う言葉」で、日本では「天皇」だけが使う一人称なのである。誰も使わんと思うけど。

 (左)3年6組 (右)3年5組



卒倒しそうになった写真を発見!!

2017-06-15 00:01:00 | 学校紹介
 またまたしびれるような写真を発見した。今度は卒倒しそうになるぐらいイケてる写真だ。

 [国立公文書館デジタルアーカイブ] [国立国会図書館]に引き続き、今度は地元はどないやろとばかりに[大阪市立図書館]をのぞいてみたら、なんとここにも[大阪市立図書館デジタルアーカイブ]があり、「東淀川区」で検索したら下の写真を発見した。

 この航空写真は1929(昭和4)年に発行された『大阪市行幸記念空中写真帖』に掲載されたもので、「CC-BY(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス)の表示がある写真については二次使用の申請手続きは不要」とのことで、ここに堂々と掲載させていただく。



 拡大 大阪上水道水源地.jpg

 1929(昭和4)年ということで、今から88年前の航空写真。当然、柴島高校や淀川キリスト教病院は写っていないが、写真のどのへんかわかるだろうか。

 写真手前の住宅街は、現在の阪急柴島駅から淀川河川敷の間にあるもの。この地のランドマークである柴島中学校は「1949(昭和24)年」に開校したというから、写真の時点ではなかったことになる。

 例によって分かりやすいように半透明で着色してみた。



 拡大 大阪上水道水源地 着色入り.jpg

(1)向こうの「茶色」が現在の「阪急京都本線」で、「黒色」の「東海道本線」の下をくぐって「南方駅」に向かっているが、かなりクネクネ曲がっているのが分かる。この近くに来ると、電車がスピードを落とさなあかんかったので、その悩みを解消すべく、1955(昭和30)年に直線化工事が行われた。「茶色」のドットが現在のルートである。

 手前の「茶色」が「阪急千里線」で、新淀川を渡る「長柄橋鉄橋」が分かりにくいが見える。「柴島駅」から「長柄橋鉄橋」までのコンクリートの高架は関西では初めての「高架」で、現在、老朽化が著しく新しいコンクリートで補強工事が行われている。

(2)「黒色」がむかしの「国鉄」、現在の「JR東海道本線」。この下の「阪急京都本線」が走る高架のレンガに、アメリカ軍の機銃掃射跡があると先日のブログに書いた。

(3)「緑」が柴島高校正門の前の道で、以前はあまり交通量はなかったが、淀キリができてからバスや救急車、タクシーも加わり、かなりの交通量となった。

 半透明の「青」が現在の「柴島高校」、「黄」が「淀川キリスト教病院」。昔の写真を見ると、「黄」の「千里線」沿いに一定間隔で建築物があるのが分かる。

 「淀キリ」が完成する前、この地は広い広い市民グラウンドとして使用され大学のラクロスチームがよく練習をしていたが、夜ともなると真っ暗で気味が悪かった。そのグラウンドの千里線沿いに何のためにあるか分からない、まさに「法隆寺夢殿」のような八角形の建物がぽつんとあり、窓ガラスは割れて落書きなどもあって不気味な雰囲気を醸し出していた。

 法隆寺夢殿 「フォト蔵」より



 今から思えば、写真の一定間隔で並んだうちのどれかが、つい最近まで残っていたやつだろう。そんな「法隆寺夢殿」の写真がほしいなあと思っていたら、なんとなんと本校ブログ「2015年8月」の「見比べる柴高」シリーズで登場していた。高校にある卒業アルバムや周年記念誌に掲載されていたのを、自分がスキャナーで取り込んだやつだ。

 学校の航空写真は10周年記念誌より。正門入って右の「テニスコート」が「福祉棟」となり、「自転車置き場」が今とは違うし「部室」がない。校舎や体育館の色はなんとなく黒ずんでいて、「白亜の校舎」とはほど遠い状態だ。

 「法隆寺夢殿」のイメージ、分かってくれただろうか。





 ほんまに昔の写真は興味深い。