goo blog サービス終了のお知らせ 

柴高の毎日

8月1日より、goo blogでの公式ブログに移行しました。

『OKU NO HOSOMICHI』 第38回

2021-09-03 14:03:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)~

   1986~2006「OKU NO HOSOMICHI」(昭和~平成)

最終回「約束の地、20年の旅の果てに」
         (岐阜県大垣市「奥の細道結びの地」2006年夏)
 
                             国語科 副島勇夫

とうとう、20年16回の旅も終わる。重いリュックを背負い直して、関ケ原から大垣を目指す。ここからは町が途切れることもなく、低い峠を越えていく。途中に家康が陣を構えた桃配山がある。関ケ原とは距離がある。慎重に距離を置いていたのだろう。やっぱり、家康だ。攻めるにも引くにも慎重だ。峠の下り、遠くに町が見える。おそらく大垣市だ。関ケ原町を抜け、垂井町。ラーメン屋さんでは、高校野球、岐阜県大会の決勝。県立岐阜商と市立岐阜商という、ややこしい商業対決だ。

 店を出て振り返ると関ケ原の山々。その向こうにここまでの東京から始まった1750キロの道がある。リュックを頭に乗せ増水した川を無謀にもわたった、3時間以上誰にも会わなかった山道、足を痛めたところを拾ってくれたトラック、怖い思いをした数件の宿、山中で出会ってしまった熊、無人駅に泊まったり、知らない農家のおじいちゃんおばあちゃんの家にも泊まったりした。熱中症で朦朧としたこと3回。当時はまだ日射病と呼ばれた。日焼けでいつも顔の皮がボロボロになった。リュックにしみ込んだ汗が、塩になっていたこともあった。山の中、海沿い、炎天下からゲリラ豪雨まで。様々な場面を思い出す。

1度だけ冬休みに歩いたことがあった。栃木県である。膝までの雪。国道はさすがに普通のトレッキングシューズでいけたが、峠道はズボっと膝まで入る。慌てて雑貨屋で長靴を買ったものだ。「もう、これより北は冬は危ないですよ」と旅館の人に言われたものだ。あの頃は若かった。無茶がしたかったのだ。あと10キロ、8キロ。終わってしまう。町中に入っていく、まだまだ目標の終焉地までは距離があるが、とりあえず大垣の駅を目指す。ここで約束があるのだ。

駅から結びの地まで2キロ、15分。ここだけ家族3人で歩く約束だった。旅の歳月の中で結婚もし、娘も生まれた。娘も8歳である。当初の予定では、ゴールで娘を抱っこし高く持ち上げるという計画だった。まだ、生まれる前からよく前任校や前前任校の生徒に言っていた。予定は5年ほどずれて娘は小学2年。抱っこという歳ではないが、言った以上は抱っこして高い高いをするのだ。もう、これは20年前からの決まりなのだ。だから、あと2キロという大垣駅のホテルに泊まって翌日を待つことになる。いつもは私がこの過酷な旅をしている間、妻と娘、妻の姉、義母は長野県の公共の宿に避暑に来る。こちらは暑い苦行、あちらは涼しい。明日だけは炎天下になれと思った。

とうとう最終日である。あと2キロを残して、あえて駅前のホテルに泊まり、この旅で最初で最後の8時半起床である。いつもは7時。8時半に宿を出ることが多かった。家族がJR大垣駅に到着するのが12時半。まだまだ、時間はある。駅のコインロッカーにリュックを預け、身軽になりたいが、少し後ろめたい。荷物なしでゴール。芭蕉に申し訳なく思い、やはり、普段通りの重いリュックを背負い、駅前の案内書や物産館で時間をつぶす。
 商店街、大垣名物「水まんじゅう」、風鈴の音。暑いが、大阪よりは湿度は低い。大阪や京都の夏は日本最悪だとここでも思う。まとわりつくようなあの熱くむしむしと湿った空気、消耗する。この旅は、そんな空気からの解放でもあった。

 12時半。まるで、梅田にでも行くような格好で妻子は来た。こちらは、真っ黒に日焼け、短パンにTシャツ、おまけにいかにも重そうなリュックである。まず、昼食。食後の休憩の後、最後の2キロを歩きだす。気楽な2人に比べて、自分は20年の思いと旅が終わる寂しさで複雑であった。自分が予想していた旅の終わりは「奥の細道終焉の地」という石碑にタッチして、万感の思いでさめざめと泣くだろうという感じだった。

 ところがである、まさかの事態が起こる。遠くにその石碑と芭蕉と曾良の像が見えてくる。娘に「あれがゴールやねん」と言った。すると、小学2年の娘は父の万感の思いなど思うわけもなく、「ひろちゃんが先!」と言って走り出した。20年である。1758キロである。2キロ歩いた娘に先を越されるのは悔しい。猛然と走った。しかし、足はパンパンである。リュックは重い。このままでは先にタッチされる。 
 息も絶え絶えに追いついた。あと5メートルだった。ここでようやく父親の余裕を見せた。はあはあ言いながら「一緒にゴールしよう」あと数歩。他には誰もいない。川沿いに整備された歩道に、それはある。あと3歩、2歩、1歩。ゴール。
「ゴール!」とはしゃぐ娘に、泣きそうな気持も消えていた。これで良かったのかもしれない。1人で始めた旅が家族でゴールする。過去の生徒たちとの約束通り、8歳になる娘を高く持ち上げた。腰が足が痛い。しかし、心地よい。終わった。1つのことを完遂した満足感がこみ上げた。
 その心地よさに浸っていると残酷にも妻が言った。「で、来年はどこ歩くの?」なんという言葉だろう。そうだ、彼らはこの旅の裏で信州に避暑に行っているのだ。しばらく考え、しかたなく言った。「中山道」。

 1986年8月1日から始まったこの旅は、奇跡的に2006年7月31日に終了。ジャスト20年。
美しすぎる。東京から1758.4キロ。108日間。費用は204万6256円。飛行機代とお土産代、それからたまに自分へのご褒美とそこそこの温泉旅館。それらの代金を引くと50万は下がっただろう。
大学時代に友人とした「奥の細道を歩く旅」はここで完結。
翌年からは、中山道を歩く526.3キロの旅が強制的に始まった(笑)                          

                  ― 完 ―

 追記:翌年から始まった「中山道」の旅は信州を通る手ごわい旅である。途中から山の中の道が多く、近年はクマがかなりの頻度で出没する。これも温暖化のためだ。そのため、京都三条大橋を出発して、滋賀、岐阜と歩き、危険ゾーンの手前、岐阜県と長野県の県境でSTOPしている。再開はいつになるのだろう。



『OKU NO HOSOMICHI』 第37回

2021-09-01 12:14:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で「STARWARS」)~

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第37回「天下分け目の関ケ原 もし西軍が勝っていたなら」
(滋賀・岐阜県2006年夏)
  国語科 副島勇夫


奥の細道の旅も最終盤だ。滋賀県、琵琶湖の東から内陸を東に向かって歩き、「天下分け目の関ケ原」で有名な岐阜県関ケ原を目指す。はじめに「関ケ原の戦い」について整理しておこう。

戦国時代後期の1600年、美濃の関ヶ原で、徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成を中心とする反徳川勢力の「西軍」とが行なった合戦だ。織田信長が天下統一目前で、本能寺の変が起こり、自害する。「天下統一」と言っても誤解してはいけない。日本統一ではないのである。京都を中心とした本州の中央を広く収めるぐらいのものである。それだけの範囲を押さえれば、歯向かう武将はほぼいない。そんな感じである。京都にいる天皇を味方につけることも意味を持つ。しかし、貴族の時代ではなく、戦国武将にとっては天皇も政治利用の道具であり、また天皇側も統治者を利用する。明智光秀が信長を討った理由も単に天下統一ではなく、様々な黒幕説がある。
信長の死後、明智光秀を討った豊臣秀吉。光秀の想像を超える速さで中国地方から引き返すのである。おそらく、秀吉は予感があったのかとも思われる。知っていたという説さえある。しかし、豊臣の栄華は長続きしない、秀吉の死後、その子秀頼はまだ若く、石田三成や徳川家康が支えていた。しかし、戦国武将、そんな野心のない者は少ない。豊臣を守るという名のもと、石田・徳川両者が覇権争いとなる。そして・・・

石田三成ら西軍は総勢10万、徳川家康ら東軍は総勢7万が関ヶ原に陣を構えた。先に石田勢が陣を構えたことから、あとから関ヶ原に到着した徳川勢は、不利な配置となっていた。軍勢だけでも東軍は不利のはずである。濃霧の中で対峙していたが、霧が晴れて来た頃、福島正則の部隊が、宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ち掛けたことで火蓋が切られる。山と山に挟まれ、武将たちの陣地は山上にある。決戦地は20万人が戦うには狭く長い草地である。



 
 西軍は多くの武将が様子見で戦に参加せず、戦闘していたのは3万程度であったが、地形的有利が働いて、東軍は少し押されていた。しかし、東軍の黒田長政らは、事前に西軍の小早川秀秋らに、戦いとなった際には、東軍に寝返るよう合戦が始まるだいぶ前から調略(極秘に味方に)していた。
 このまま西軍に味方しようか、約束通り東軍に寝返るか、決め兼ねていた小早川秀秋は、関ヶ原合戦に参加せず見守る。そんな姿にしびれを切らした徳川家康は、昼過ぎになって小早川秀秋の陣に目がけて大砲を撃ち掛けたと言われる。「徳川家康が怒っている」として、小早川秀秋は西軍を裏切って隣の大谷吉継らの陣に突撃を開始。そして、同じく家康の調略を受けていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保、吉川広家らも西軍を裏切って、東軍として戦いに参加した。
 
このように、合戦が始まる前には西軍が有利であったが、徳川勢の調略が功を奏して寝返りや、動かない大名が続出する結果となる。こうして、西軍は総崩れとなり、双方合わせて6000~8000人の戦死者を出した関ヶ原の戦いは、したたかな、徳川家康勢の大勝利となった。関西にアンチ家康が多いのはこういうところだ。したたか、戦巧者、知略にたけたと言えばいいが、卑怯だ。狡猾だ。嫌いだ。若い秀頼を支えると見せて、着々と時期を待つ。われらが太閤秀吉さんの大坂城を、堀を埋め、弱体化させ、ついには潰してしまう。そして、その上に新たな大坂城を建造する。ちなみに豊臣大坂城の残骸の上に徳川大坂城が建てられ、戦争で焼失したのち現在の大阪城が建っているのである。

したたかで、浪速の太閤はんを踏みにじった家康。その家康の徳川幕府。江戸、東京。東京は敵だ。巨人も敵だと阪神ファンは、この「大坂DNA」を受け継ぎし者なのである。もちろん、東京から見れば大阪はライバルでもない。一地方大都市である。巨人ファンも、阪神をライバルとはあまりおもっていないだろう。そこが、そこが、声を大にして言う、我々阪神ファンにとって悔しい。相手にもされていない感。だからこそ、万城目学の「プリンセス・トヨトミ」の「大坂国」に共感するのだ。「奥の細道」も「関ケ原の戦い」もどこかに飛んでしまった。

総勢20万の天下分け目の大決戦になるはずが、たった6時間で終わってしまう。家康のしたたかさに「石田軍」は総崩れとなるのである。ここで大勢は決した。後の「大坂冬の陣」「夏の陣」で完全滅亡する。ここに戦国の世は終わるのである。
もし、この戦いで石田三成が勝ち、家康が戦死。徳川家が取り潰されていたならどうなっただろうか?奈良・平安と近畿が中心であった。京都か大阪が首都なのだろうか?関西人にとっては、それも1つの夢かもしれないが、現実的には、そこまでのカリスマ性が三成にはなかった。むしろ嫌われていたため、戦国の混乱が続いたのだと思う。カリスマがしたたかに長期安定政権を作った場所、そこが日本国の中心になったのだろう。それは仙台や長野、愛知、新潟、福岡であったかも知れない。もちろん、大坂に現れたならば、現在、大阪は首都かもしれない。でも、人口は今より多く、ごちゃごちゃとした
 超大都会になっていただろう。芸能人、有名人に会えるチャンスは多いと思うが。

>

  その関ケ原を目指して歩いていた。関ケ原は山と山に挟まれた場所である。冬は豪雪で現在でもJR 
 が運航停止になる。夏も雨が多い。天候が不安定なのだ。この日も曇りである。ここ何年かの奥の細道
の旅は天候に恵まれない。歩き始めたころと日本の夏は変わってきていることを感じる。四季の変わり
目が曖昧となり、夏が長くなったようだ。振り返ると、福井県の方は黒い雲である。雨は迫って来るだろう。南側は晴れている。国道を歩いているが、民家が減っていく。コンビニもない。10時半、とうとう本降り。歩道がなくなり、道路の白線の内側30センチの幅を歩く。トラックが水を跳ね上げる。
雨の中、7月末で蝉はヒグラシ、そして鶯の鳴き声まで聞こえてくる。季節も天気も、すべてがアンバランスだ。滋賀県米原町からこの旅最後の15番目の都道府県、岐阜関ケ原町に入る。

 雨が止むが、この1時間ほど民家を見ない。車以外に人も見ない。おそらく直距離トラック用の食堂で昼食。そこからすぐに、関ケ原古戦場のエリアに入った。意外だった。目の前に広がるなだらかな斜面と草地。それを取り囲む丘や低山。それらが各武将の陣の跡だった。東西の合流地。見下ろせる陣取り。戦いは平地。理にはかなっている。民家もあるが、古戦場の趣は残っている。ここに立つと見降ろされている感じがあるのだ。三成の陣の跡が残る丘に登る。敵が見える。情勢がわかるのだ。歴史マニアのおじさんに話しかけられ、20分ほど説明を聞く。奥の細道を歩いていることを伝えると握手をしてきて去って行かれた。古戦場には往時をしのぶのぼりが立てられ、曇り空に湿った風を受け、わずかにはためいていた。






 この狭い場所に20万の兵が、功名の野心や、裏切りやお家の名誉をかけ戦った。豊臣を継ぐという名の下で、家康は自分の国を作ろうとしたたかに計画を練った。今はのどかな田舎町である。当時も何もない場所だっただろう。おそらく駅で借りられるレンタサイクルに乗った親子連れが、笑いながら競争している。あちこちに武将が戦死した場所がある。今から400年ちょっと昔のことである。

2006年の旅も終盤。ここから、「奥の細道」結びの地岐阜県大垣市までは、あと17キロ。この日は大垣に入ったあたりで泊まろう。とうとう、20年にわたる旅も終わる。私は、再び降り出した雨の中、大垣を目指して歩き出した。

次回は第38回最終回「約束の地 20年の旅の果てに」(岐阜県大垣市2006年夏)です。






 


『OKU NO HOSOMICHI』 第36回

2021-08-25 10:07:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)~

  『1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)』

第36回「落雷の恐怖、豪雨の山頂 (滋賀県 2005年夏)」
                            国語科 副島勇夫

 土砂降りのため、やむなく敦賀で打ち切った昨年。その敦賀からはじまる。

 2年前同様、この年も阪神はJFKの鉄板のリリーフ陣で強かった。9月に甲子園で巨人戦での優勝。最後は久保田がレフトフライに打ち取り、金本がウイニングボールをつかむという最高の優勝の仕方である。
 ところが多くの阪神ファンにとってこの年は封印したいほどの優勝なのである。それはクライマックスシリーズ(この頃はパリーグだけ行っていた。ちなみに昨年、今年はコロナのためCSはない)を勝ち上がってきた千葉ロッテに4連敗するのである。それも大差の負けが3つもある。初戦は10点以上取られ、しかも、球場が霧で包まれ何も見えなくなりコールド負け。セリーグ優勝の気分は粉砕されるのである。2021年今年はどうなるのであろうか?
 話を2005年7月に戻そう。この段階では阪神も首位中日と激しく争っていた。

 お盆明けの昨年と違い今回は7月末である。朝、家を出て、新大阪で特急サンダーバードで敦賀へ。悲しいぐらい速く到着。1時間20分。あっと言うまである。初日は敦賀の街を散策すると決めていた。ここは見どころの多い町である。敦賀気比神社、晴明神社などを訪れ、ヨーロッパ軒でソースかつ丼を食べる。このあたりに芭蕉が逗留した出雲屋があるのだが現存せず、喫茶店の横に説明の看板しかない。福井のソースかつ丼は薄めのウスターソース。どこか物足りないのだが、まあ食べやすいことは確かである。あっさりのかつ丼。卵でとじてもいない。キャベツ、とんかつ、ソースで終了である。
 安倍晴明は有名な陰陽師である。映画や漫画にもなったスターである。式神という妖怪を使い平安の時代に活躍した謎の人物である。京都にも晴明神社はある。いずれもパワースポットである。その後、芭蕉が貝拾いをした色の浜を目指す。敦賀の町から入り江沿いに西へ向かう。色の浜は芭蕉が憧れた俳人、西行の訪れた歌枕(俳句等に詠まれる名所)である。「ますほの小貝」を芭蕉は拾った。

 衣着て 小貝拾はん いろの月    芭蕉

の句を残している。
 色の浜は小さな砂浜である。貝殻は特別なものではなかったが小ぶりな可愛い貝だった。ここからは海のレジャースポットとして有名な水島が見える。日本海でありながら、水島は白い砂浜に囲まれた小島で、その周辺の海は南海のように青なのである。沖縄やタヒチのような青と白い砂浜のミニチュア版。敦賀の海岸からは何か所か、この水島への送迎船が出ており、色の浜もその1つである。そのため、芭蕉の色の浜は、水島へ向かう人の乗船場、駐車場があり。まったく風情はない。

 風情のないついでに映画館で「STARWARSⅢ」を観る。何を隠そう私は「STARWARS」フリークなのである。初めて公開されたのが高校1年の夏。「1」と思っていたが、後にこれが6部作のⅣにあたることになる。小柳先生とはライバルである。毎回公開されるたびに、何回観たか、細部の確認をする。そのために、初めは3Dで観る。もちろんIMAX。本当のIMAXの上映方式が行える映画館は、日本ではエキスポシティにしかない。そのため、わざわざ遠来から来るマニアもいるぐらいである。大阪人としては、なんと幸せなことか。そして、細部を確認するために2Dで2回目。そして、もう1度味わうために3回目。これが定番コースである。まさか、敦賀で1回目を観るとは思っていなかったが、見ないわけにはいかない。ちなみに翌朝の最初の上映も見てしまうのであった。

  アナキン、そんな簡単にダークサイドに堕ちるか?
  ジェダイ、もっと強いんちゃうん?パルパティーンを見破れない?
  メイス・ウインドウ、最強とちゃうんか?

などなど、心の中で突っ込みながら観ていた。ああ、愛した「STARWARS」が終わってしまう。期待しすぎたので感動はなかった。しかし、この後、かなりの年月を経て、シリーズは7,8,9と作られ近年完結した。それこそ、満足のいかない完結だった。財力があるなら作り直したい。そして阪神は0対13でヤクルトに負ける。2位中日との差4ゲーム。もう負けられない。



 翌日、敦賀の町の背後にある山々を超えていく。超えればとうとう滋賀県。近畿地方である。山道、上り路。もう、自販機もコンビニもない。天気は朝から曇りだったが次第に怪しくなっていく。沓掛あたりから雨が降り出す。振り返ると敦賀辺りは真っ暗だ。雨雲が追いかけてくる。峠道。民家もない。
 とうとう雷が鳴りだした。光る。音。その間隔が狭まっていく。100mほど先に小屋がある。雨が土砂降りになった。走れ。小さな倉庫。雷がすさまじくなる。音はゴロゴロではない。パシューッとかバキバキとか唸っている。凄まじい音、光。そして台風並みの雨。倉庫の軒下では雨宿りにもならない。全身が濡れていく。レインコートは着ているが。靴は守れない。絶え間ない雷。その時だった。一段と凄まじい炸裂音。200mほど先の木に落ちた。閃光。地鳴りのように、地面が振動する。思わずしゃがみ込んでいた。焦げた臭い。自然の凄まじいエネルギー。姿勢をかがめ耐え忍ぶ。その間も炸裂音は繰り返す。山間を通る電線の高い鉄塔に避雷針があり、そこに落ちているようだ。動けない。この道は逃げ場がないのだ。時折、車が水を大量に飛ばして逃げるように走っていく。雷が遠ざかった。雨が急速に止んでいく。助かった。びしょびしょのまま歩き出す。10分も歩くとバス停の待合があった。ここまで来ていたらもっと安全だったのに。


 
 そこから余呉湖を目指す。靴を濡らしたため足の皮がふやけ、指にマメが出来ていくのがわかる。痛い。そのうち避けて血が出るのだろう。一応、靴を脱いで足をふき、靴下も絞ったのだが、そんなことはたいして効果がない。ふやけた皮膚。しみ込んだ靴下。これまで何度経験したか。余呉湖到着。ここは天女が羽衣を残して天に飛んで行った羽衣伝説のある地だ。日本各地に同様の言い伝えはある。かぐや姫もそうだ。羽衣をかけた木というのがあったが、どうせ嘘だろう。
 きっと、この天に帰る人の伝説は「古代の宇宙人」なのだと信じている。そういうのが好きなのだ。世界各地に、空から来た神の言い伝えがある。天にまつわる建造物がある。それで十分だ。地球人だって宇宙人の一種だ。余呉湖は1周回れるほどの湖だが、マメが潰れ、バンドエイドを巻いている今、そんな余裕はない。木之本を目指す。今日の目的地だ。足が痛い。セミが鳴いている。ヒグラシ。まるで秋だ。木之本に着いたのは、夜の7時だった。
 阪神は藤川が打たれ、負け。中日は11連勝で3ゲーム差に。阪神はここから高校野球に甲子園を渡し、苦手な死のロードに出る。8ゲーム差が3ゲーム差に。まるで2021年だ。



次回は第37回「天下分け目の関ケ原 西軍が勝っていたなら (滋賀・岐阜県2006年夏)」です。



『OKU NO HOSOMICHI』 第35回

2021-08-25 09:22:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
 ~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で「STARWARS」?)~

     『1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)』

   第35回「『栄光の架橋』からのクマの恐怖再び 長い長いトンネルの話」(福井県 2004年夏)

                              国語科 副島勇夫

 久しぶりの連載再開である。2017年以来、4年の月日が開いてしまった。これはひとえに私が42期、43期の副担で楽しんでいたためである。連載よりも学級通信を書き、クラスで遊んでいたため、連載は後回しにしてしまった。定年まで、あと1年半。連載の回数も、あと数回なので、何とかして完結させようと思い再開した。あと数回、今回、次回の滋賀県余呉湖、その次の滋賀県関ケ原、そして最終回の岐阜県大垣。全39話。きりが悪いのであと1回こぼれ話で、40話完結で終了。すでに発表されたものは、柴島ブログのMENUから記事カテゴリ「国語科S先生の『OKUNOHOSOMICHI』」をご覧ください。
 この紀行文は毎年数回「柴島ブログ」にあげていた。いつかは手直しをしたうえで、本にして自費出版なり、紀行文コンクールに応募するつもりだ。初任校でこの旅を始めた時から、そう考えていた。60歳で定年後の出版を予定していた。気が付けば、あと1年半である。連載だけでも終わらさないと、現在の柴島在校生のほとんどが知らない紀行文となってしまっている。
 前回は福井県の永平寺で終わっている。1年生の現代国語の教科書によく載っている「とんかつ」の少年が入門する古刹だ。今回は、その翌年2004年、今から17年前の夏の話だ。自分は当時42歳、まだまだ50肩も腰痛もなく元気だった。2004年8月16日、永平寺に戻ってきたところから始まる。
 


 あと1週間で夏休みも終わる。本来なら予習やらなんやらで歩いてなどいられない時期なのだ。この年は夏休みの中盤までクラブの付き添いや実家の手伝いで余裕がなかった。今年はパスと思いもしたが、全部投げ出し、この旅に戻ってきた。完全フリーの「ホントの夏休み」なのだ。東京を出発して東北を目指していた頃は、まだ若く、そして1回につき1週間から10日の旅だった。学校も変わり、家庭も持つと、なかなかそうはいかない。1回につき5日程度、当然、踏破距離も短くなる。若い頃は1日30キロぐらい歩いていたが、40を超えると20から25キロが無難である。それに、この10年ほどで明らかに日本は暑くなった。近畿に戻ってくるに従い暑さと湿度も高まる。消耗戦だ。
 お昼に永平寺の山門に到着。昨年、拝観した場所だ。下り道、初日、一気に参道を下っていく。空はうろこ雲。秋だ。こんなに遅い時期のOKUNOHOSOMICHIの旅は初めてだった。気温29度だが、湿度は低く歩きやすい。快調に福井市の中心地を目指す。永平寺を目指した道を戻るだけだ。昨年見た光景が逆回しのように現れてくる。土産物屋、住宅、田んぼ、突然現れる住宅街、田舎道、駅。幼稚園には誰もいない。まだお盆が明けたばかりなのだ。初日は福井市のビジネスホテルに泊まる。疲れはない。テレビではアテネオリンピック。
 翌朝、まだ早い時間だった、テレビをつけると男子体操団体。最後の鉄棒。3人がノーミスで決めていく。最後の1人が着地へと、、「伸身の月面宙返りは栄光への架け橋だー」の名実況がここで飛び出す。今でも語り草の、オリンピックと言えば繰り返されるシーン。そしてゆずの曲。偶然だった。何気なくテレビをつけた。大会屈指の名シーンに出会った。柔道も敗退を繰り返し、ソフトボールもアメリカに延長で負けた。このあと女子マラソンで野口みずきさんが金メダルを取るのだが、この男子体操団体は印象深い。
2日目、外は曇り。予報では雨になる。この旅の期間は、予報では毎日が雨だった。朝食を済ませ歩き始める。日差しはあるが、行く手は暗い。鯖江(さばえ)市に入ったあたりで雨が降り出す。ひどくならないうちに武生(たけふ)に着きたい。写真を撮るほどでもない普通の小都市の道。レインコートを羽織ってただ歩く。解放感。この旅で一番心地よいものがない。雨、普通の道、それでも歩かなければゴールには着かない。武生に着いたあたりで土砂降り。ここまでで24キロ。まだ、歩けるが、土砂降り歩きは荷物や靴が濡れる。靴を濡らしながら歩くとマメができやすい。まだ、時間は早いがこの日は武生泊まりとした。テレビでは、甲子園の高校野球。東北高校のエースはダルビッシュである。9回2アウトから追いつかれ敗戦。東北に悲願の優勝旗は今年もダメだった。この旅のおかげで東北地方は第2の故郷だ、残念である。夜は「ウォーターボーイズ2」この頃の石原さとみは素朴だ。
  3日目。今回の旅はほとんどが町道だ。曇りが雨に変わっていく。今庄を目指す。今庄はスキーで毎年のように来るところだ。スキー場は通らないがふもとの今庄市にかけては次第に山間の道に入っていく。これでこそ「奥の細道」の旅だ。ポツンとある「今庄そば」の店で昼食をとる。昔の面影の残る今庄の街に入る。今庄から敦賀に向かうところに今回の最大の難所がある。「木の芽峠」峠道をいくつも超えてきたので峠道は楽しみだ。途中には廃墟となった集落も保存しているらしい。今回の旅のハイライトだ。町役場で、木の芽峠越えの最適コースの情報を尋ねると、、、、、今朝、クマが出て、地元のおばあちゃんが襲われたとのこと。通行止めになっていた。クマ、クマ。かつて、宮城県の山中でクマに出会った。その話は過去のブログに載せている。クマには会いたくなかった。他のルートを尋ねると
 木の芽峠の下を通り抜けるトンネルが今春開通したらしい。芭蕉が歩いたのは木の芽峠である。トンネルなどない。しかし、通行禁止である、クマにも会いたくない。トンネルしかない。だが、このトンネル全長1.5キロなのだ。歩道はあるが、幅が狭いらしい。長距離のトラックが飛ばしていくそうだ。



 1.5キロのトンネルを歩いている人間がいるとは誰も思わない。それも1段高いとか、柵があるとかの歩道ではないらしい。猛スピードでトラックが横を通過すると風の流れで道路側に体が吸い込まれるのだ。それは何度も経験したが、たいてい数百メートルのトンネルだ。それが1.5キロ。
  歩くしかないか。クマ出没注意の看板。人が住んでいるのかどうかもわからない集落が2つ。実際にたどり着くと、「木の芽トンネル1783m」の表示。おいおい、283m長いではないか。意を決してトンネルへ。歩道は1mちょっと。赤みがかった照明が不気味。しかし、それどころではなかった。
 横をやや減速した大型トラックがびゅんびゅん通っていく。そのたびに吸い込まれそうになる。足を踏ん張り、左手をトンネルの壁に当てながら歩く。20分ぐらいで抜けるはずだが、長い。トンネルの壁はなぜか濡れているし気持ち悪い。邪魔だとばかりに乗用車がクラクションを鳴らして通り抜ける。「やかましわー」思わず怒鳴り返すが、次の車の音にかき消される。長い長い23分の後、ようやくトンネルを出ると、これぞ山間の道、山、畑、あとは何もない。ホッとした。クマも怖いが、長いトンネルも怖い。あの轟音の反響と風圧。注意を促すクラクションもあれば、怒りのこもったクラクション。
山道を下っていく。数えるほどの信号。自販機。町が近い。コンビニ。敦賀に近づいている。気が付くと左手がトンネルの壁の苔で緑色だ。午後3時、敦賀駅到着。今日は天気も悪いので、ここで泊まろう。
 距離22キロ。たいして疲れていないが、気持ちが疲れた。名物の「おろしそば」と「ソースかつ丼」を食べよう。あったかいお風呂に入ろう。
 翌日から天気は土砂降り。それが数日続くらしい。最近でいう線状なんやら帯である。めどが立たないため、今回はここで打ち切り。敦賀からJR特急雷鳥で帰る。1時間25分で新大阪。とうとう、この旅も家まで2時間のところまで戻ってきたのだ。現地まで飛行機も使って1日がかりということも多々あったのに、寂しさがこみ上げる。終わりは近い。

次回は第36回、「落雷の恐怖、豪雨の山頂 滋賀県 2005年夏)」です。

『OKU NO HOSOMICHI』 第34回

2017-07-15 00:01:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)~

1986 OKU NOHOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第34回「夢の日付(那谷寺・永平寺 石川県・福井県 2003年夏)」

国語科 副島勇夫



 私はテレビの「巨人対横浜」戦を見続けていた。ここが大阪なら、阪神戦は必ず放映されているのだが、石川県小松市では、某放送局の全国ネットが約束されたチームの試合しか観ることができなかった。今ではその放送局でさえ、地上波での巨人戦を見限っているが。

 そこで仕方なく、時折映し出される「他球場の試合経過」をひたすら待っていたのだ。前半戦終了時点で優勝までのマジック46。2位ヤクルトとのゲーム差は15。阪神ファン歴20年の私にとって、この差はセーフティーリードではなかった。8月には「死のロード」か待っている。昨日の後半戦初戦は守護神ウィリアムズか抑えきれず、急きょ、安藤が投げ、辛くも逃げ切った。

 そして7月29日。私は1年ぶりに「奥の細道」を歩く旅に帰ってきた。石川県小松市。ヤンキースの松井の育った街だ。テレビでは巨人戦。「他球場の経過」でアナウンサーが、どこか嬉しそうに阪神の苦戦を告げていた。8回裏に追いつくが、9回に久保田が2点取られ敗戦。3安打の1点。勝利の方程式は微妙に崩れ始めていた。

 翌日、私は今日の目的地「那谷寺(なたでら)」を目指し歩き始めた。野球のことを考えながら歩くのは初めてだった。なにしろ前回の優勝は2003年の18年前、当時大学の4年生だった。だから、この旅はその翌年から始まっているのだ。秋までというより、夏の時点で阪神のシーズンは終わっているのが常であった。あと1歩だった1992年も夏の段階ではまだ混戦で、どうせダメだろうと思っていたのだ。

 昨日は負けたものの、私は「優勝」の文字が現実味を持つ喜びで足取りも軽かった。しばらく歩くと前方に巨大な白いドームが田畑のなかにあった。その違和感のかたまりのような「小松ドーム」では地元のバレーボールか何かの試合かあるようで、ユニホームやジャージ姿の中学生が自転車でやって来ていた。広大な駐車場には数台しか車はない。何に使うのか、維持して行けるのだろうか。競技場、道路、トンネル、様々な施設。確かにそれぞれの地元では何かほしいだろう。よそを意識すれば、満足できないだろう。しかしこういった日本中の無駄を集めれば、もう少しましなことができたはずだ。真夏の青空の下、真っ白なドームか空しかった。

 天気は晴れ。まだ旅の2日目なので快調に歩く。温泉のホテル群を横に見ながら、10時30分に今日の第1の目的地「那谷寺」に到着。ここは真言宗の寺で、境内には山、川、谷と自然が凝縮され、中でも灰白色の凝灰岩からなる小さな丘といった感じの「遊仙境」は印象的だ。正面から見ると、モンスターが口を開けたような形の岩山は登ることができ、私も中に入って足下に注意しながら、登り降りした。



 下の池の前では、数人の人がこちらを見ている。登ってきそうだったので、先を急ぐことにした。本殿「大悲閣」はそれらしい木造の建物が実は拝殿で、本殿はその奥の岩窟の中にあり、薄暗く不気味な感じであった。本殿脇の小さなトンネルを抜け、見学コースに従うと、次は三重塔、眺めのよい橋を渡り展望台へ、ここからは遊仙境がよく見える。先ほどの家族連れが登っている。階段を下りると芭蕉句碑、鐘楼、神社まである。何でもありの、かつては旅人によって語り広められた一大施設だったのだろう。表現は不適切だが、楽しかった。堪能した。

 「フォト蔵」より





 寺の前で名物「那谷寺そば」を食べ、次の目的地、山中温泉を目指す。途中、山代温泉を通過。予約をしていなかったか、何とかなるだろうと、少しあやしくなりだした天気の下、歩いているとポツリポツリと雨。午後2時30分に山中温泉に到着したが、あいにく宿はどこも満室。仕方なく小雨の中、8キロ先の大聖寺を目指すことにした。

 山中温泉は以前訪れたことがあり、もともと見物するつもりはあまりなかった。傘を差しながら歩く。大聖寺まで歩くと今日は33キロ歩くことになる。ややオーバーペース。明日は少し距離を抑えないと、まめができるか足か痛むだろう。小雨はとうとう本降りになる。午後5時30分、大聖寺に到着。宿に入り、夜は阪神戦をスポーツニュースで観る。4対0をおいつかれ、延長で辛くも久慈のサヨナラヒッ卜。やはり危ない。外は土砂降り。雷もなっている。

 ところが、翌日は晴れ。芭蕉が滞在した全昌寺を訪れ、1時間ほど見物し、かつての加賀の国と越前の国の境である吉崎を目指した。集落と集落の間は道路だけ、ほとんど人にも会わない。

 途中、福井県に入る。1時間30分ほど歩くと北潟湖に面した小さな公園があった。木陰に涼しげなベンチ。木の葉の揺れる音。穏やかな水音。木漏れ日。引き寄せられるようにベンチで少し横になった。いつのまにか眠っていたようだ。夢まで見た。心地よかった。昨日は少し歩きすぎた。今日はのんびり歩こう。

 横になったまま青い空を眺め、水音を聞いていた。それから湖に面した道を歩いていくと、水面を何かが飛び跳ねている。水面を上に向かって50センチかそれ以上跳んでいる。魚だ。あちらこちらでひっきりなしに跳んでいる。それが面白くて、ここでも時間を過ごしてしまった。

 その後、次第に道は山の中に入り、炎天下の道中となる。暑い。日焼けか辛くなりそうだった。午後4時頃、芦原温泉到着。日焼けのため、湯船に入れない。これも毎年のことだ。この日、阪神は60勝目。井川12勝。マジック41とする。

 翌日は丸岡を経由して、松岡の天龍寺、その後、山の方へ近づいていくだらだらとした道を進み、午後6時頃、永平寺に到着する。見物は明日にして宿に入る。この日はBSの放送で阪神戦があり、久しぶりに観戦。伊良部10勝目。マジック39。本当に優勝できるかも。まだ信じられない。このころの阪神ファンは臆病なのだ。90年代の暗黒時代、5位か最下位に慣れていたのだ。

 朝から永平寺を参拝する。曹洞宗の本山、永平寺は1244年の開山。下界とは隔離された荘厳な杉木立に囲まれた修行のための寺である。参拝の前に大広間で諸注意がある。時間も早く、天候も悪かったため、私1人がその話を聞いていた。気が引き締まった。それまでの物見遊山的な姿勢を戒められた感じだった。

 筆者撮影






 国語の教科書によく採り上げられている作品に「とんかつ」というのがある。中学を卒業して、この永平寺に修行僧として入る少年と母親の交流の話だ。永平寺に入ると基本的には修行が終わるまで、この中で生活するのだ。10万坪の境内の中に大小70棟余りの建物、そこで生活する200名以上の僧達。全てを包む樹齢600年の杉の大木。静かな中に読経の太くよく通る声が朗々と響く。こういう生き方もあるのだ。この道を選んだ10代の少年達。現代日本社会の軽さとは対極の生き方。降り止まぬ雨を眺めながら、涙ぐみそうになる自分は甘いと感じていた。

 今夏の旅は、永平寺の感動を薄れさせないためにも、ここまでとした。来年は永平寺から敦賀、その翌年はいよいよ敦賀から「奥の細道」結びの地、岐阜県大垣に到着する。

 1986年から始めたこの旅も2005年の夏に20年がかりで完結する予定だ。この年、阪神タイガースは9月15日に18年ぶりのセントラルーリーグ優勝を決め、星野仙一監督が言った「夢に日付を書く」ことができた。大学時代に友人と約束したことから始まった私の小さな夢「奥の細道を歩く」も、そろそろ日付を書く日が近づいてきたようだ。阪神が優勝した日。おそらく永平寺はいつもと変わることのない静けさを保っていたことだろう。当日、甲子園を場内一周するV戦士達を見ながら、私はそんなことを考えていた。

次回は第35回、「クマの恐怖再び 長い長いトンネルの話 福井県 2004年夏)」です。