~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)~
1986~2006「OKU NO HOSOMICHI」(昭和~平成)
最終回「約束の地、20年の旅の果てに」
(岐阜県大垣市「奥の細道結びの地」2006年夏)
国語科 副島勇夫
とうとう、20年16回の旅も終わる。重いリュックを背負い直して、関ケ原から大垣を目指す。ここからは町が途切れることもなく、低い峠を越えていく。途中に家康が陣を構えた桃配山がある。関ケ原とは距離がある。慎重に距離を置いていたのだろう。やっぱり、家康だ。攻めるにも引くにも慎重だ。峠の下り、遠くに町が見える。おそらく大垣市だ。関ケ原町を抜け、垂井町。ラーメン屋さんでは、高校野球、岐阜県大会の決勝。県立岐阜商と市立岐阜商という、ややこしい商業対決だ。
店を出て振り返ると関ケ原の山々。その向こうにここまでの東京から始まった1750キロの道がある。リュックを頭に乗せ増水した川を無謀にもわたった、3時間以上誰にも会わなかった山道、足を痛めたところを拾ってくれたトラック、怖い思いをした数件の宿、山中で出会ってしまった熊、無人駅に泊まったり、知らない農家のおじいちゃんおばあちゃんの家にも泊まったりした。熱中症で朦朧としたこと3回。当時はまだ日射病と呼ばれた。日焼けでいつも顔の皮がボロボロになった。リュックにしみ込んだ汗が、塩になっていたこともあった。山の中、海沿い、炎天下からゲリラ豪雨まで。様々な場面を思い出す。
1度だけ冬休みに歩いたことがあった。栃木県である。膝までの雪。国道はさすがに普通のトレッキングシューズでいけたが、峠道はズボっと膝まで入る。慌てて雑貨屋で長靴を買ったものだ。「もう、これより北は冬は危ないですよ」と旅館の人に言われたものだ。あの頃は若かった。無茶がしたかったのだ。あと10キロ、8キロ。終わってしまう。町中に入っていく、まだまだ目標の終焉地までは距離があるが、とりあえず大垣の駅を目指す。ここで約束があるのだ。
駅から結びの地まで2キロ、15分。ここだけ家族3人で歩く約束だった。旅の歳月の中で結婚もし、娘も生まれた。娘も8歳である。当初の予定では、ゴールで娘を抱っこし高く持ち上げるという計画だった。まだ、生まれる前からよく前任校や前前任校の生徒に言っていた。予定は5年ほどずれて娘は小学2年。抱っこという歳ではないが、言った以上は抱っこして高い高いをするのだ。もう、これは20年前からの決まりなのだ。だから、あと2キロという大垣駅のホテルに泊まって翌日を待つことになる。いつもは私がこの過酷な旅をしている間、妻と娘、妻の姉、義母は長野県の公共の宿に避暑に来る。こちらは暑い苦行、あちらは涼しい。明日だけは炎天下になれと思った。
とうとう最終日である。あと2キロを残して、あえて駅前のホテルに泊まり、この旅で最初で最後の8時半起床である。いつもは7時。8時半に宿を出ることが多かった。家族がJR大垣駅に到着するのが12時半。まだまだ、時間はある。駅のコインロッカーにリュックを預け、身軽になりたいが、少し後ろめたい。荷物なしでゴール。芭蕉に申し訳なく思い、やはり、普段通りの重いリュックを背負い、駅前の案内書や物産館で時間をつぶす。
商店街、大垣名物「水まんじゅう」、風鈴の音。暑いが、大阪よりは湿度は低い。大阪や京都の夏は日本最悪だとここでも思う。まとわりつくようなあの熱くむしむしと湿った空気、消耗する。この旅は、そんな空気からの解放でもあった。
12時半。まるで、梅田にでも行くような格好で妻子は来た。こちらは、真っ黒に日焼け、短パンにTシャツ、おまけにいかにも重そうなリュックである。まず、昼食。食後の休憩の後、最後の2キロを歩きだす。気楽な2人に比べて、自分は20年の思いと旅が終わる寂しさで複雑であった。自分が予想していた旅の終わりは「奥の細道終焉の地」という石碑にタッチして、万感の思いでさめざめと泣くだろうという感じだった。
ところがである、まさかの事態が起こる。遠くにその石碑と芭蕉と曾良の像が見えてくる。娘に「あれがゴールやねん」と言った。すると、小学2年の娘は父の万感の思いなど思うわけもなく、「ひろちゃんが先!」と言って走り出した。20年である。1758キロである。2キロ歩いた娘に先を越されるのは悔しい。猛然と走った。しかし、足はパンパンである。リュックは重い。このままでは先にタッチされる。
息も絶え絶えに追いついた。あと5メートルだった。ここでようやく父親の余裕を見せた。はあはあ言いながら「一緒にゴールしよう」あと数歩。他には誰もいない。川沿いに整備された歩道に、それはある。あと3歩、2歩、1歩。ゴール。
「ゴール!」とはしゃぐ娘に、泣きそうな気持も消えていた。これで良かったのかもしれない。1人で始めた旅が家族でゴールする。過去の生徒たちとの約束通り、8歳になる娘を高く持ち上げた。腰が足が痛い。しかし、心地よい。終わった。1つのことを完遂した満足感がこみ上げた。
その心地よさに浸っていると残酷にも妻が言った。「で、来年はどこ歩くの?」なんという言葉だろう。そうだ、彼らはこの旅の裏で信州に避暑に行っているのだ。しばらく考え、しかたなく言った。「中山道」。
1986年8月1日から始まったこの旅は、奇跡的に2006年7月31日に終了。ジャスト20年。
美しすぎる。東京から1758.4キロ。108日間。費用は204万6256円。飛行機代とお土産代、それからたまに自分へのご褒美とそこそこの温泉旅館。それらの代金を引くと50万は下がっただろう。
大学時代に友人とした「奥の細道を歩く旅」はここで完結。
翌年からは、中山道を歩く526.3キロの旅が強制的に始まった(笑)
― 完 ―
追記:翌年から始まった「中山道」の旅は信州を通る手ごわい旅である。途中から山の中の道が多く、近年はクマがかなりの頻度で出没する。これも温暖化のためだ。そのため、京都三条大橋を出発して、滋賀、岐阜と歩き、危険ゾーンの手前、岐阜県と長野県の県境でSTOPしている。再開はいつになるのだろう。

1986~2006「OKU NO HOSOMICHI」(昭和~平成)
最終回「約束の地、20年の旅の果てに」
(岐阜県大垣市「奥の細道結びの地」2006年夏)
国語科 副島勇夫
とうとう、20年16回の旅も終わる。重いリュックを背負い直して、関ケ原から大垣を目指す。ここからは町が途切れることもなく、低い峠を越えていく。途中に家康が陣を構えた桃配山がある。関ケ原とは距離がある。慎重に距離を置いていたのだろう。やっぱり、家康だ。攻めるにも引くにも慎重だ。峠の下り、遠くに町が見える。おそらく大垣市だ。関ケ原町を抜け、垂井町。ラーメン屋さんでは、高校野球、岐阜県大会の決勝。県立岐阜商と市立岐阜商という、ややこしい商業対決だ。
店を出て振り返ると関ケ原の山々。その向こうにここまでの東京から始まった1750キロの道がある。リュックを頭に乗せ増水した川を無謀にもわたった、3時間以上誰にも会わなかった山道、足を痛めたところを拾ってくれたトラック、怖い思いをした数件の宿、山中で出会ってしまった熊、無人駅に泊まったり、知らない農家のおじいちゃんおばあちゃんの家にも泊まったりした。熱中症で朦朧としたこと3回。当時はまだ日射病と呼ばれた。日焼けでいつも顔の皮がボロボロになった。リュックにしみ込んだ汗が、塩になっていたこともあった。山の中、海沿い、炎天下からゲリラ豪雨まで。様々な場面を思い出す。
1度だけ冬休みに歩いたことがあった。栃木県である。膝までの雪。国道はさすがに普通のトレッキングシューズでいけたが、峠道はズボっと膝まで入る。慌てて雑貨屋で長靴を買ったものだ。「もう、これより北は冬は危ないですよ」と旅館の人に言われたものだ。あの頃は若かった。無茶がしたかったのだ。あと10キロ、8キロ。終わってしまう。町中に入っていく、まだまだ目標の終焉地までは距離があるが、とりあえず大垣の駅を目指す。ここで約束があるのだ。
駅から結びの地まで2キロ、15分。ここだけ家族3人で歩く約束だった。旅の歳月の中で結婚もし、娘も生まれた。娘も8歳である。当初の予定では、ゴールで娘を抱っこし高く持ち上げるという計画だった。まだ、生まれる前からよく前任校や前前任校の生徒に言っていた。予定は5年ほどずれて娘は小学2年。抱っこという歳ではないが、言った以上は抱っこして高い高いをするのだ。もう、これは20年前からの決まりなのだ。だから、あと2キロという大垣駅のホテルに泊まって翌日を待つことになる。いつもは私がこの過酷な旅をしている間、妻と娘、妻の姉、義母は長野県の公共の宿に避暑に来る。こちらは暑い苦行、あちらは涼しい。明日だけは炎天下になれと思った。
とうとう最終日である。あと2キロを残して、あえて駅前のホテルに泊まり、この旅で最初で最後の8時半起床である。いつもは7時。8時半に宿を出ることが多かった。家族がJR大垣駅に到着するのが12時半。まだまだ、時間はある。駅のコインロッカーにリュックを預け、身軽になりたいが、少し後ろめたい。荷物なしでゴール。芭蕉に申し訳なく思い、やはり、普段通りの重いリュックを背負い、駅前の案内書や物産館で時間をつぶす。
商店街、大垣名物「水まんじゅう」、風鈴の音。暑いが、大阪よりは湿度は低い。大阪や京都の夏は日本最悪だとここでも思う。まとわりつくようなあの熱くむしむしと湿った空気、消耗する。この旅は、そんな空気からの解放でもあった。
12時半。まるで、梅田にでも行くような格好で妻子は来た。こちらは、真っ黒に日焼け、短パンにTシャツ、おまけにいかにも重そうなリュックである。まず、昼食。食後の休憩の後、最後の2キロを歩きだす。気楽な2人に比べて、自分は20年の思いと旅が終わる寂しさで複雑であった。自分が予想していた旅の終わりは「奥の細道終焉の地」という石碑にタッチして、万感の思いでさめざめと泣くだろうという感じだった。
ところがである、まさかの事態が起こる。遠くにその石碑と芭蕉と曾良の像が見えてくる。娘に「あれがゴールやねん」と言った。すると、小学2年の娘は父の万感の思いなど思うわけもなく、「ひろちゃんが先!」と言って走り出した。20年である。1758キロである。2キロ歩いた娘に先を越されるのは悔しい。猛然と走った。しかし、足はパンパンである。リュックは重い。このままでは先にタッチされる。
息も絶え絶えに追いついた。あと5メートルだった。ここでようやく父親の余裕を見せた。はあはあ言いながら「一緒にゴールしよう」あと数歩。他には誰もいない。川沿いに整備された歩道に、それはある。あと3歩、2歩、1歩。ゴール。
「ゴール!」とはしゃぐ娘に、泣きそうな気持も消えていた。これで良かったのかもしれない。1人で始めた旅が家族でゴールする。過去の生徒たちとの約束通り、8歳になる娘を高く持ち上げた。腰が足が痛い。しかし、心地よい。終わった。1つのことを完遂した満足感がこみ上げた。
その心地よさに浸っていると残酷にも妻が言った。「で、来年はどこ歩くの?」なんという言葉だろう。そうだ、彼らはこの旅の裏で信州に避暑に行っているのだ。しばらく考え、しかたなく言った。「中山道」。
1986年8月1日から始まったこの旅は、奇跡的に2006年7月31日に終了。ジャスト20年。
美しすぎる。東京から1758.4キロ。108日間。費用は204万6256円。飛行機代とお土産代、それからたまに自分へのご褒美とそこそこの温泉旅館。それらの代金を引くと50万は下がっただろう。
大学時代に友人とした「奥の細道を歩く旅」はここで完結。
翌年からは、中山道を歩く526.3キロの旅が強制的に始まった(笑)
― 完 ―
追記:翌年から始まった「中山道」の旅は信州を通る手ごわい旅である。途中から山の中の道が多く、近年はクマがかなりの頻度で出没する。これも温暖化のためだ。そのため、京都三条大橋を出発して、滋賀、岐阜と歩き、危険ゾーンの手前、岐阜県と長野県の県境でSTOPしている。再開はいつになるのだろう。
