これが豊臣時代の大坂城。天守閣のある「本丸」とその周りを囲む「二の丸」の広さは、現在と大体同じぐらい。天守閣の位置は、現在の天守閣の東側にある「配水池」あたりにあった。
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豊臣時代の大坂城.jpg
1615(慶長20)年の「大坂夏の陣」で天守閣は焼け落ち、豊臣氏が滅亡した後、2代将軍徳川秀忠は1620(元和6)年から、全国の大名を動員して大坂城修築工事を開始。1629(寛永6)年に工事が終了した。
その際、豊臣カラーを徹底的に葬り去るため、残った建物を破壊、石垣や堀を土で埋めたので、今も豊臣時代の名残はどこを探してもない。上の写真で大坂夏の陣で焼失した建物以外のすべてのものが、現在も土の中に埋まっていると考えると、その執念たるやすさまじいものがある。
現在、大阪市は、大坂夏の陣から400年を機に、秀吉が築いた初代大坂城の石垣を掘り起こす「大坂城豊臣石垣公開プロジェクト」に取り組んでいる。
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豊臣時代と江戸時代の天守閣の比較.jpg
結局、現在大阪城で建物というか構造物としては、以下の想像図「徳川期大坂城」にて赤の半透明で表現した部分(名称は赤字の半透明)があるのみ。
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徳川期大坂城.jpg
★青字は現在、存在していない構造物で、それぞれ焼失した時期は以下の通り。
明治初頭の戊辰戦争 本丸御殿・四番櫓・五番櫓・七番櫓 太鼓櫓
大阪大空襲 1945.8.14 二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓
その他、天守閣のある本丸の周囲にもたくさん櫓があったようで、当時の名前までは分からなかった。すべて現存していたら、石垣のすごさも加わって姫路城を上回る日本一の城郭であったやろなあ。
★赤字の現在の建物について、いつ建設されたかは以下の通り。
【一番櫓】 1628(寛永5)
【六番櫓】 1628(寛永5)
【大手門】 1628(寛永5) 大阪城の正面玄関。
○城の正面玄関を「追手門」ともいう。柱の継ぎ手に注目。
【多聞櫓】 1628(寛永5)→ 1783(天明3)落雷で焼失 → 1848(嘉永元)再建
【千貫櫓】 1620(元和6) 乾櫓と並んで大阪城でもっとも古い建物
【乾 櫓】 1620(元和6)
【青屋門】 戊辰戦争で半焼 → 大阪大空襲で大破 → 1969(昭和44)に復元
○「青屋門」は大阪城の鬼門(北西)であり、普段は閉められたままだったという。
【桜 門】 戊辰戦争で焼失 → 1887(明治20)年に陸軍が再建。
○桐(豊臣家)の家紋に注目。
【天守閣】
初 代 1585(天正13)築 → 1615(慶長20)「大坂夏の陣」で焼失
二代目 1629(寛永6)再建 → 1665(寛文5)落雷で焼失 以後再建されず。
三代目 1931(昭和6)再建 市民の寄付による。これが現在のもの。
これでいくと「初代20歳」「二代目36歳」で亡くなっているが、「三代目」はなんと今年「86歳」で、大阪城の歴史でもっとも長生きしている天守閣なのだ。
★大阪城には4か所の出入口(黒字)があって、「大手口」が正面玄関、他の「玉造口」「青屋口」「京橋口」が裏口(搦手=からめて)で、特に「青屋口」の「青屋門」は、北西「鬼門」にあったので、普段は閉められていた。
9月の前期最後のフィールドワークでは、この想像図を参考にして、櫓や土塀などの建物が並んでいた光景を目に浮かべながら歩いてほしいものだ。