柴高の毎日

8月1日より、goo blogでの公式ブログに移行しました。

過去ログ 1年生保護者対象【科目選択説明会】について

2017-06-30 20:15:00 | 学校行事・生徒会
7月1日(土)1年生保護者対象
【科目選択説明会】について


明日の保護者対象の科目選択説明会に出席される保護者の方は、

場所 : 4F視聴覚教室
受付 : 12時45分

※座席はクラスごとに座る場所が決まっています。
※スリッパとネームプレートをご持参ください。



点字の授業

2017-06-30 19:08:00 | 授業・HR
 毎年、点字の授業では自由作品を作成しています。

 4月から中間試験までの間で点字の50音などを覚え、文章の書き方の基本を勉強します。そのあと、それを使って、自由に作品に取り組みます。

 今年はどんな作品が完成するでしょうか。乞うご期待!







観光学FW 解散後の大阪城下見報告(1)

2017-06-30 11:39:00 | 授業・HR
 先日、観光学FWで駅前第3ビルの沖縄&熊本事務所を訪問。その後、中央公会堂前で解散したが、我々担当者2人は解散後も寸暇を惜しんで9月に予定されている大阪城FWの下見に繰り出したのである。

 堺筋線「北浜駅」界隈

 江戸時代、中之島には全国の藩の蔵屋敷があり、藩内で収穫されたコメが遠路はるばる船で大阪まで運ばれ換金された。コメを取り引きする「米穀取引所」が大坂にあり、それが明治になってから、NHK朝ドラ『あさが来た』でディーン・フジオカが演じた「五代友厚」が発起人となって設立された「大阪株式取引所」となる。

 写真の銅像の人物が「五代友厚」で、明治になってから火の消えたようになった大阪経済を立て直した「大阪経済界の重鎮」である。 



 1915(大正4)年に建設された難波橋(なにわばし)。堺筋にかかる重厚な橋で、モデルはパリのセーヌ川にかかる橋。橋の南詰土台に鎮座する「ライオン」を撮影した。

 左右で一対となっており、写真は口を閉じた「吽形(うんぎょう)」。反対は口を開けた「阿形」で、神社の「狛犬(こまいぬ)=空想上の生物」のスタイルをまねた「獅子=ライオン」である。

 古代インドの言葉である「サンスクリット語」では、「阿」は口を開いて最初に出す音、「吽」は口を閉じて出す最後の音で、宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。

 「阿吽(あうん)の呼吸」という言葉があるようにこの一対の「獅子」は息の合った「難波橋」のガードマンであり、「我々がこの橋を守ってまっせ」「悪いことしたらアカンで」と、高いところから威厳ある姿で我々を見下ろしていた。



 谷町線「谷町4丁目駅」の「1B」から地上に出て、「大手門」を目指す。本町通を東に歩き、馬場町交差点で「NHK大阪」と「大阪歴史博物館」を撮影。「歴博」は、当日のFW終了後、高校生料金400円を払って見学するにはあまりに惜しい。なぜなら「午後5時」で閉館するからで、興味のある生徒は夏休みなどを利用してじっくり見学するのがいいだろう。



 馬場町の交差点をわたっていよいよ大阪城公園内へ。園内では日本人の我々は完全にマイノリティで、中国や韓国からと思しき多くの観光客でにぎわっていた。



 じっくり彼らを観察すると大学生ぐらいの若者が多く、「彼らはちゃんと大学に行っているのか」と心配になった。ゆえに下見の後半、男性2人組に英語で話しかけると、韓国ではなんと数日前から夏休みに入っているとのこと。そして翌日は姫路城に行くと言っていたので、「おそらくあなたは今日大阪城を見たよりも何十倍も感動するだろう」と英語で答えた。

 「南外濠(みなみそとぼり)」に面した石垣と「六番櫓」。この面には7つの櫓が並んでいたが、幕末の戊辰戦争や太平洋戦争で相次いで焼失し、残っているのは「一番櫓」と「六番櫓」だけ。

 徳川時代の大坂城を再現した下のイラストで、現在、建物として残っているものを赤で表現してみた。


 


 ああ、なんという美しさだろうか。私が実際に訪れた幾多の城郭の中で、石垣の積み方の美しさは大阪城が一番と信じて疑わない。しかし、その十倍以上も城郭を訪問している同僚M氏は香川県の「丸亀城」と断言していたが。

 生徒諸君には、角ばった石をどのようにして積んだら写真のような湾曲になるのか、約400年前の技術者の気持ちになって考えてほしいものだ。



 例によって[大阪市立図書館デジタルアーカイブ]より、同じ場所から撮影したであろう写真(おそらく大正から昭和初期)を掲載します。



 おそらく一番手前が現存している「六番櫓」。戊辰戦争時に「四番櫓」「五番櫓」「七番櫓」が焼失したので、むこうに見えるのは1945(昭和20)年8月14日にアメリカ軍の大空襲で焼失した「三番櫓」だろう。はるか向こうに前回話題にした「大阪陸軍造兵廠」の煙突がみえる。



 アニメ『名探偵コナン』で、目暮警部が登場する前に必ず「警視庁」の建物が写るが、それに対抗してデザインされたとしか思えない「大阪府警本部」。

 手前に「シロツメクサ」が群生しているが、なんとこの時期であるにもかかわらず雑草が生えていない。なんかうらやましい。

以下次号

6月30日 金曜日の風景

2017-06-30 11:06:00 | クラブ
 昨日の豪雨の湿っぽさがまだまだ空気感として残っていた午後、真夏を思わせる太陽が雲間から姿を見せ、むせかえるような蒸し暑さがわが身をまとう。生徒諸君は熱中症に気を付けられたし。

 そんな暑さの中、卒業アルバム用のクラブ集合写真の撮影がスタートした。前年と同じく写真屋さんのあとをついてまわり、オープンスクール用の集合写真を撮影する。



























陸軍大阪造兵廠

2017-06-27 00:04:00 | 授業・HR
 前回6月22日のブログ「大阪城上空写真」で登場した「軍需工場」の件。

 その名も「大阪陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)」といい、1870(明治3)年に「日本陸軍の祖」である大村益次郎の提案で大阪に建設された。

 当初は、現在の「大阪城ホール」や「太陽の広場」あたりだけだったが、徐々にその敷地を拡大して、最終的には現在の「記念樹の森」「市民の森」「大阪ビジネスパーク」「JR西日本森ノ宮電車区」「大阪市営地下鉄森之宮検車場」「森ノ宮団地」まで広がった。

 軍需工場としてはアジア最大を誇り、日本陸軍のでかい大砲を製造する唯一の工場だった。また、当時としては最先端の技術水準をもっており、民間からの注文にも応じていた。

 当然、1945(昭和20)年3月13日に始まる「大阪大空襲」の標的となり、6月26日、7月14日の大空襲では大きな被害はなかったが、8月14日午後からの集中攻撃で約80%が破壊された。

 その流れ弾かもしれないが、国鉄(当時・現在はJR)京橋駅の環状線ホームを1トン爆弾4発が直撃し、その下の片町線(当時・現在は東西線)ホームに避難していた人々が犠牲となった。その正確な数は不明とされているが、おそらく700~800人と思われる。

 また、大阪城の「二番櫓」「三番櫓」「坤櫓」「伏見櫓」「京橋口多聞櫓」が焼失したのもこの日である。

 太平洋戦争が終了後、跡地は不発弾が危険ということで20年近く空き地になっており、残存している「鉄くず」(国有財産)をゲットして換金する「アパッチ族」と呼ばれる人々のターゲットとなった。

 最初の赴任校で、昭和30年代に環状線の窓から「アパッチ族」とそれを追いかける警官の捕物帳を目撃した先輩教師がおり、その話に興味を持った自分に「これを読め」とすすめられたのが、『日本三文オペラ』(開高健)と『日本アパッチ族』(小松左京)だった。

 のちに自身も「アパッチ族」だった在日コリアンの梁石日(ヤン・ソギル)も『夜を賭けて』で、当時の警察との攻防を描いている。

 例によって「国土地理院」の上空写真から、1948(昭和23)年当時の上空写真に「大阪造兵廠」だったところを黄色で着色、白の半透明文字で現在の場所を表現してみた。





拡大 大阪造幣廠黄色で着色.jpg

 となると「陸軍大阪造兵廠」はどんな建物だったのかと興味がわく。またまた例によって「大阪市中央図書館」の「デジタルアーカイブ」のお世話になろう。

 と思って探したら、なんと1929(昭和4)年に撮影されたこれ1枚。やはり最高の軍事機密ゆえに仕方ないかもなあ。



 写真左下が「大手門」。写真中央に「天守閣」(昭和4年なのでまだ完成していない)のある「本丸」に通じる「桜門」がみえる。林立する煙突の数々が、「アジア最大の軍需工場」という形容が大げさでないことを証明している。

 そらこんな巨大な軍需工場がアメリカ軍の標的になって当たり前だが、そのすぐ近くにある「天守閣」が焼失や破壊もされず残っているのが奇跡に思える。

 現在、柔剣道のメッカ「修道館」(1962年=昭和37年完成)のあるあたりは、おそらく陸軍関連の建物が所狭しと並んでいるのが分かる。

 現在の地図と見比べてほしい。上の1929(昭和4)年の写真はちょうど白の矢印方向で撮影した感じかな。



 大阪が日本を代表する工業都市として発展してきた背景には、この「大阪造兵廠」の存在を抜きに語れない。しかし、現在、その遺構は、下の写真の「京橋口付近の表門」と「守衛詰所」、その奥の「化学分析場」ぐらい。

 「京橋口付近の表門」はここにあった。



 「大阪造兵廠」が「大阪砲兵工廠」と呼ばれていた1887(明治20)年に、明治天皇が各工場を見学した時のモニュメントか?



 「守衛詰所」跡



 以前ブログで紹介した「化学分析場」跡



 しかし、「大阪造兵廠」で当時最先端をいく機械で習得した職人の技術は、今も大阪周辺の町工場で受け継がれているはずだ。