我らがケイオンのリハーサルを終え、野外音楽堂前で解散。その後、夕焼けに染まる天守閣を撮影すべく生徒とは反対方向へ歩く。
バス駐車場に向かう外国人観光客。
ネットニュース「ZUU ONLINE」(6月6日)に以下のような記事が掲載されていた。
日本政府観光局(JNTO)の報道発表資料によると、2016年の訪日外客数は2400万人、2017年は4月までに既に900万人を突破、4月は前年同月比23.9%増の257万9千人と単月で過去最高を記録した。その背景には航空路線の拡大や寄港クルーズ船の増加などがある。2020年には東京五輪・パラリンピックを控え、訪日外国人旅行者の増加はまだまだ続きそうだ。
その後、最近の外国人観光客をめぐる問題が記載さ入れていた。
(1)「公道カート」(50CC以下の4輪自動車)を集団走行して観光名所を巡っている。シートベルトやヘルメットの着装義務はないが、日本の交通ルールに不慣れなことや、カートの車高が低いためにバスやトラックなどの大型車両から死角になることも懸念されており、東京では交通事故が相次いでいる。
(2)日本国内を旅行中に不慮のケガや病気により病院を受診するケースが増えている。訪日外国人の中には海外旅行保険に未加入のために、医療費を未払いのまま帰国してしまう人もいる。
2020年東京五輪・パラリンピックまでに訪日外国人旅行者4000万人という目標が掲げられているが、上記のような問題を克服しつつ、成熟した「観光立国」の実現のためには、ハード面とソフト面のインフラ整備が必要であると、記事はまとめられている。
先日のケイオンの付き添いで気づいたことだが、大阪城天守閣のある「本丸」では完全に外国人観光客が「マジョリティ」で、それ以外の人が「マイノリティ」であることを実感した。ちまたでよく耳にするマナーの悪さなどを感じることは全くなかったが、実はこのリハの日に、自分が思うベストビューポイントの近くで、「ドローン」を持った外国人男性が警備の制服を着た男性に注意されてドローンを持って去っていくシーンを目撃した。
大阪城公園内で「ドローン」の扱いはどうなっているか知らないが、もしも「ドローン」が墜落したときのことを考えると何らかの規制はあるだろう。当然、「ドローン」で上空から大阪城を撮影したい日本人もいるかもしれないが、外国人を相手にしたときに問題になってくるのは「言葉」と「異文化」である。
多くの外国人観光客が来日するのはうれしいが、それに伴って増加する問題を克服できるのはやっぱり「意思疎通」であり、それには「言葉」と「異文化理解」、それに「コミュニケーション能力」が必要である。
上記の記事のように「ハード面とソフト面のインフラ整備」が必要だ。受け入れる側の体制が追い付いていないのに「訪日外国人旅行者4000万人」が最優先の数値目標となり、たとえ目標を達成できても、その後、「また日本に行ってみたい」というリピーターの獲得は難しいだろう。
さて、この日、すれ違った無数の外国人観光客は、日本、そして大阪にどういう印象を持って帰国したのだろうか。
地元の人と思しき親子。夕焼けを受けた長い影が印象的。
ベストビューポイントにて撮影中、突然背後上空に飛行機雲が出現。あまりの美しさにしばし見とれる。この日、青空の各所に飛行機雲を見ることができたが、飛行機雲が出現しやすいということは湿度が高いということで、次の日に雨になりやすいという。
撮影日はリハのあった6月4日の土曜日。本番のあった日曜日の天気は晴れ。まあ、こういうときもあるだろう。
月齢「8」の月が、夕刻ではあるが空高くに見える。
「京橋口」
下の「徳川時代の大坂城」の赤丸のところ。これを見ても分かるように、大阪城に侵入する経路のうち、北西を担当する重要な場所。当然、櫓や門があったはずだが、写真のように石垣のみ。
ちなみに青の「伏見櫓」は、1945(昭和20)年の空襲で焼失した。
観光学の大阪城FWは、毎回地下鉄の谷四から歩いている。下にもあるように赤の線のルートで、大手門から入城する。
そこは大手門や多門櫓が現存しており、たとえ大手門を突き破られても、周囲の白壁や櫓から容赦なく火縄銃で攻撃できるようになっており、他の「玉造口」や「京橋口」も同じような防御機能があったはずだ。
何かの折にこの「京橋口」を訪れた際、目を閉じて周囲に櫓や白壁がある光景を思い浮かべてほしいものだ。
「京橋口」の石垣の上から外堀と追手門学院の校舎を見る。ここも昔は櫓か城門などの構造物があったのだろう。
同じ場所からみた「京橋口」。向こうの石垣をみて、なんとなく櫓と城門がこの場所にあったことが想像できる。ここの建物は、1945(昭和20)年のアメリカ軍の空襲で、ことごとく焼失した。
写真の奥に見える巨石が「肥後石(ひごいし)」。広さ33畳敷きで大阪城内では、すでに紹介した「蛸石」についで2番目に大きい石とされている。
その名は、肥後(熊本)の加藤清正が工事を担当したからだといわれているが、実際に京橋口の工事を担当したのは「桜門」と同じく岡山藩であった。
本来なら「備前石(びぜんいし)」というべき石なのだ。この時の岡山藩の藩主(大名・殿様)の池田忠雄は、今頃あの世で「なんでやねん」と悔しがっていることだろう。
少し北に行くと石垣の上にレンガの壁がみえる。ここが「筋鉄門跡」で、明治初期に両脇の石垣の上にレンガの塀が築かれ「大阪陸軍造兵廠」の正門として使用されていたという。
さらに入ると、「旧陸軍第4師団司令部」とともにレトロな建物として有名な「化学分析場」がある。大阪城の周辺にあった「陸軍造兵廠」(東洋一の軍需工場)で現存する唯一の建物だ。
1987年まで自衛隊の施設として使用されていたが、今は閉鎖されたままになっており、今後のことは何も決まっていないらしい。
後は朽ち果てるのを待つだけなのか。本当にもったいない。
その後、地下鉄天満橋駅まで歩き、昨年11月に『ブラタモリ』でも紹介されていた上町台地の北端と目される階段を撮影する。
ちょうど「北大江公園」の北側にある階段で、この公園では毎年10月に「たそがれコンサート」が開催されているらしい。
月齢「8」の月が、ちょうど南の夜空に煌々と輝いていた。