柴高の毎日

8月1日より、goo blogでの公式ブログに移行しました。

10月31日 月曜日の風景

2016-10-31 19:56:00 | 学校紹介
 世間では「ハロウィン」の喧騒が続く中、本校では科目抽選の結果が張り出されていた。

 総合学科では自分の進路にあった科目を選択できるが、全員がその科目を選択できるわけではない。なぜなら設備や教室の関係で受講人数に制限のある科目もあり、定員をオーバーした場合は抽選が行われる。

 その結果が廊下に張り出され殺到する生徒たち。そんなポーズはいいので、はやく抽選結果を見た方がいいんじゃないかな。



 この夏、サントリーフラワーズよりプレゼントされた80苗のサンパラソルジャイアントだが、そろそろ見納めの時が近づいてきたかな。同社のホームページに「大きな花プロジェクろ2016」というコーナーがあり、花苗をプレゼントされた団体が発信した現状レポートが紹介されている。本校も数回送信したので、生徒の皆さんもぜひ見てほしい。

[ 大きな花で街を彩ろうキャンペーン 近畿エリア ]






『OKU NO HOSOMICHI』 第20回

2016-10-31 18:57:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)~

1986OKU NOHOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第20回「西岩出山の夕陽 懐かしのディスカバー・ジャパン(岩出山・宮城県 1991年 夏)」

副島 勇夫(国語科)



 歩き出した頃から振り始めた雨は、ほんのしばらくの小雨の時間を経てすでに本降りとなっていた。背負った荷物の上からレインポンチョを着ていた私は、それでもどこからか忍び込んで来る雨と汗ですっかり濡れてしまい、半ば、やけ気味だった。

 3年生担任の夏は忙しいだろうと思い、前年の夏はこの「奥の細道」を歩く旅はパスしていた。2年振りの東北だったが初日は雨で17キロしか歩いていなかった。そして2日目の今日も朝からの雨で、昨年の分を今回の旅で十二分に取り返そうという私の目論見はすっかり外れてしまっていた。

 昨日到着した金成(かんなり)町から歩き始め、築館(つきのだて)、一迫(いちのはさま)といった町を歩いているうちに、雨はどしや降りになっていた。いつもの旅なら今日はここまでと諦めただろうが、その時の私は2年振りの東北だという喜びと距離を稼がねばという思い、そして今夏の旅2日目相応の元気さがあった。やむどころかますますひどくなる雨の中、私は一迫町を出発した。

 ここを過ぎると次は17キロ先の岩出山まで宿はない。しかも山超えだ。地図で見る限り車道もあり、標高もたいしたことはない。希望は目的地の方角の空が少し明るいことだった。一迫の町を外れると、道の両側は田畑ばかりになった。時折、車が水しぶきを上げながら通り過ぎていく。対向車も何もないこんな道で減速しなければならないのが鬱陶しいのか、通り過ぎると猛烈に加速していく。雨は少し小降りになったがその代わりに道は登り坂、次第に山の中に入っていく。それにしても車が少ない。もちろん歩いている人もいない。

 「上街道」という復元されたものではあるが、芭蕉の頃を思わせる道に入る。進むに従い鬱蒼として、木々の濡れた匂いに妙に不安になる。おまけに謂(いわ)れのありそうな墳墓の横を通らねばならず、その時ばかりは念仏のようなものを唱えずにはいられなかった。

 上街道は一度車道に合流した後、「上街道千本松」という松並木の道に分岐していく。千本松は延々と続き、雨は今にもやみそうなまでになったが、依然として辺りはうす暗い。松は適当な間隔をおいているので、視界は開けているのだが、山と灰色の空以外は何も見えない。20分ほど経ち、松並木が途切れた。途切れると道がそれ以上はなかった。

 ひき返さればならないのか。

 時刻はすでに午後4時前だった。よく見ると人一人が通れる程の草を踏み分けたような道が茂みの中へと続いている。はたして元の車道に戻れるのかどうか分からないが、間違いなくそれは人が通るためにある道だった。ならば通るしかないだろう。覚悟を決めてどこに辿り着くかもわからない道を歩き出した。下っていくに従って次第に道幅が狭くなっていく。両側の茂みが迫ってきたかと思うととうとう道らしい道はなくなってしまった。

 これはまずいなあ、迷いそうやなあと呑気に考えていると、短パンでむき出しの足がチクチクと痛い。草の葉で切ったのかと見ると点々と血が針で突いたように惨んでいる。どうも茂みのせいではないらしい。気持ち悪いと思ったが、両手でバサバサと茂みとかき分けながら、かろうじて足元にも残されたかつての道の跡を下っていった。

 十分ほどその状態が続いただろうか。伸びた草木のためにかき消されていた道が再び姿を現し始めた。足は相かわらずチクチクと痛がゆい。いきなり視界が開けると道は人2人分の幅になり、民家が1軒おまけにおばあさんが一人あきれた顔をしてこちらを見ていた。

 「まあー」と驚きの声の後、どこから来たのか、何をしているのか、歩いて来たのか、どこへ行くのかというようなことを尋ねられたと思うのだが、方言のためその言葉の半分はわからなかった。

 ただその会話の中で「クマ」という言葉が気になった。出るのかクマが…。もっと山深い所にしかいないだろうとたかをくくっていた。用心しなければ。(しかしこの不安は2日後の8月10日土曜日午前11時20分頃現実のものとなってしまうのだった。)

 小降りだった雨もようやくやみ、レインポンチョを脱ぎながら足がどうなっているのか確認すると、太股に点々と血の跡。それも針で突いたほどの細かい跡だ。そして上半身をねじり足の裏側つまり背中側を見ると、ひざの裏側の少し下に赤みを帯びた白い小さな袋のようなものが、いくつも吸いついていた。

 手ではらうとパチンと弾けて赤い液体が飛び散った。そうかヒルだったのか。そういうこともあるだろう。私は歩き始めながら、アマゾンのジャングルでは木の上にたくさんのヒルがいて、その木の下を牛馬が通ると、どういう仕組みかわからないがばらばらと降り、全身の血を無数のヒルが吸い尽くしてしまうという話を思い出し、ちょっとした冒険家気分に浸っていた。

 それから10分ほどで元の車道に合流し、民家が数軒程度の集落に辿り着いた。パン屋のおばあちゃんに話しかけられ、尋ねてみるとやはりクマが出ると言う。岩出山まではまだまだあるが西岩出山の駅を中心とする町まではあと4キロらしい。4キロなら一時間の距離だ。5時半過ぎには着く。その思いに励まされて歩き出した。雨もやんだ。道もある。しかも舗装されている。楽勝だ。そのはずだった。

 ところが1時間経っても山の中だった。いや正確には山の上だった。ふもとには一面の田んぼ。遠くに栗原電鉄の1両だけの電車が左から右に走っていく。停った所がきっと西岩出山の駅なのだろう。小さな町の様子が見える。遠い、そして足も痛い。雨の中をすでに30キロ以上歩いている。1日25キロペースと決めている身には少しきつい。日が暮れるまでには何とか着きたいのでぺースを上げた。時速6キロぐらいで歩く。下り道で爪先が痛い。

 午後6時半頃、ようやくふもとの国道に出る。町の中心地はきっと駅前だろうから駅を目指す。15分ほど歩き、駅に着くが小さな無人駅。町の中心地とかにぎわいといった言葉とは無縁のひっそりとした駅前である。プラットホームに待ち合い室が1つ。少し離れてベンチが1つ。この町に泊まる所はあるのだろうか。

 とにかく疲れたので誰もいない駅のベンチに腰を下ろす。

 疲れた。

 まだ旅の2日目とはいえ、雨の中の37キロの歩きはきつかった。電車の来る時間ではないらしい。目の前には広大な田んぼが広がる。その緑に暮れかかった西陽が当たっている。その向こうに山が連なっている。あの辺りを歩いていたのだ。ちょうどあそこからふもとを見下ろし、今いるこの駅を見ていたのだと確認していた時だった。

 その感情はふいに訪れ、私の心を乱した。遠くに見える山のつらなりが西陽にゆっくりと染まっていく。目の前の田んぼが赤い陽を受け揺れている。烏の鳴く声。夕暮れ時特有の匂い。周囲のものが少しずつ黒くなっていく。

 振り返ると、ものすごい夕焼け。雲が赤黒く次第に影を濃くしていく。天に面して黒く、地に面して赤く、低いところをほのかに赤い透けるような雲が流れる。

 この場面。この瞬間。自分の中の記憶とは違った別のどこかが、この場面を知っている。

 自分の中の何かがこの風景に共鳴している。これが見たかったのかも知れない。

 広がる田んぼ。遠くの山々。夏。夕陽。静かに冷えていく熱気。

 自分の中にある1つのイメージ。

 小学校の時の下校の音楽「遠き山に日は落ちて」あれはドボルザークだったか。幼い頃過ごした兵庫県西宮市の社宅の2階の窓から見ていた日没。その頃通っていた保育園で夕方の母の迎えを待つ自分。夕焼けの後、次第に暗くなっていくのが不安だった幼い日の記憶。そんな夕暮れの記憶が次々に蘇る。

 気がつくと私は泣いていた。夕陽がその最後の輝きを見せた後、すべては燃えつきたように色を失なっていった。

 無人駅の誰もいないホームで、ベンチに腰を下ろしていた私はようやく我に返り立ち上った。それは約15分間の出来事だった。そしてこれが「奥の細道」の旅なのだと思った。

 さて、泊まる所はあるのだろうか。なければこの無人駅の待合室でもよい。ベンチも屋根もある。これで充分だ。中に入ってみると壁にはいくつもの落書き。その中の一つが目にとまる。「岩出山の田舎っぺ。この田んぼ、何とかしなさい!仙台のCity girlより」それに答えた落書き。「仙台には米送らん!さっさと帰れ!」。私はウエストポーチの中のボールペンを探し、そこに書き加えた。

 「そうだ送るな、絶対に。田舎を、この広がる田んぼを馬鹿にするこんなやつに米を食わすな!」

 日本もまだまだ捨てたものではない。こんな緑の田園風景がある。昔からの何もない日本がある。明日は晴れる。何も気にせず歩くことができる。さあどこかで晩飯食って、今夜は駅の待合室で寝ることにしよう。どうだ、私はこんなにも自由だ。そんな思いが私を満たしていた。

 次回は第21回「ある日森の中、出会ったもの・・・それはクマさん~前編」(出羽街道中山越、宮城県。1991年、夏)です。





ハロウィンとはなんぞや?

2016-10-31 00:02:00 | 学校紹介


 今日10月31日は「ハロウィーン」。日本でも各地でイベントが開催され、昨日の日曜日には東京の渋谷などでは奇抜な仮装をした若者を中心に、何万人もの人で賑(にぎ)わったという。

 そもそも「ハロウィーン」とは何か? 

 自分は四十数年前の中学1年生の2月14日=「バレンタインデー」で、人生で初めてチョコレートをもらった懐かしく甘酸っぱい経験があり、「バレンタインデー」に関しては何の違和感もないが、この「ハロウィーン」(以下「ハロ」)がなんで日本でこれだけ熱狂するのかさっぱり分からない。そしてなんと市場規模(どれだけ国民がお金を使うか)で、2015年に「ハロ(約1200億円)」は「バレンタインデー(約1100億円)」を上回っているのである。ちなみに「クリスマス」は7000億円。さすが!!

 以下、「ハロ」に関する数々のネットを閲覧、社会科教師として信頼できる情報をまとめてみた。生徒諸君の中には留学を志す人もいるが、「日本の常識」は「世界の非常識」であることがままあることを知ってから旅立ってほしいものだ。

(1)「ハロ」はキリスト教の宗教行事ではない。

(2)「クリスマス」「バレンタインデー」「イースター」はキリスト教の宗教行事。


 ○12月25日「クリスマス(Chistmas)」=「イエス」が「キリスト=救世主=Chist」として生誕したことを祝う「ミサ」。決してサンタクロースの誕生日ではない。「イエス・キリスト」の「キリスト」は、決して「上の名前=苗字」ではない。このへんのところ、よろしく。

  「キリスト教とはどんな宗教?」を一言で答えるならば、「イエスはキリスト」と信じている宗教なのである。そして「旧約聖書」にも登場するアダムとイブをつくった「全知全能の神」のみを神とする「一神教」なのだ。ちなみに「ユダヤ教」も「イスラム教」もこの同じ神を信仰している。

 ○2月14日「バレンタインデー」=269年にローマ皇帝の迫害で殉教した聖バレンタインの記念日。カップルが愛を誓い合う日。女性が男性にチョコレートを贈るのは日本のみ。メリーチョコレート(東京・大田区)が1958(昭和33)年に新宿伊勢丹でセールをやったのが起源といわれている。

  元来男女双方向に愛を誓い合う日であり、チョコレートに限らずカードやケーキ、セーターなどをプレゼントする。1か月後の「ホワイトデー」も日本のみで、「バレンタインデー」同様に日本企業が営利目的の販売促進のために考案した。

 ○「イースター」は「復活祭」ともいい、キリスト教徒にとって「クリスマス」よりも大切な宗教行事。

  「神の子」で「キリスト(救世主)」ある「イエス」が、「十字架にかけられて死んだ3日目に復活しした奇跡」を記念・記憶する日で、3月下旬から4月上旬の日曜日に実施されるが毎年日付が変わる。

  「クリスマス」や「バレンタインデー」のように毎年日付は決まっていない。

  すでに日本(例えばディズニーやUSJ、百貨店や菓子メーカーなど)では「クリスマス」「バレンタインデー」「ハロ」に続く第4のイベントとして期待する向きもあるが、年度末や花見、入社式や入学式などと重なり、イベント閑散期の「ハロ」と比べて盛り上がりはあまり期待できない。

  というより、「クリスマス」や「バレンタインデー」と比べてよりディープなキリスト教の宗教行事なので、日本での盛り上がりは遠慮するのがエチケットではなかろうか。



(3)「ハロ」は、大昔にヨーロッパに広く住んでいた「ケルト人」の祭典が起源。

 ○「ケルト人」は、自然を信仰の対象ととらえ、生物や森、宇宙の中に超自然的、霊的な魂を見出していた。この辺は、縄文時代の授業で習う日本のアニミズムと似ている。要するに「多神教」なのだ。 

 ○「ケルト人」にとって1年の終りは10月31日(日本でいう大晦日)。ちょうど秋の収穫を祝う季節。

 ○この夜は夏の終わりと冬の始まりを意味する。死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていた。

 ○大昔の「ケルト人」は日本と同じ「多神教」で、妖精や精霊、魔女の存在や輪廻転生(りんねてんしょう)を信じており、精霊や魔女から身を守るために、そして秋の収穫を祝うために、仮面をかぶって魔除けの火をたいてこの夜を過ごした。

 ○「秋の収穫を祝う」あたりは、日本の神社の秋祭りと趣旨は同じ。

(4)その後、「ケルト人」はどうなった?



 ○「濃い緑」は紀元前1500年~紀元前1000年に「ケルト人」が住んでいたところ。

 ○「薄い緑」は紀元前400年ぐらいに「ケルト人」が住んでいたところ。

 ○これでも分かるように「ケルト人」はヨーロッパ全土に広がっており、彼らの信仰の影響がヨーロッパの童話などで「妖精」や「精霊」がやたら登場することで理解できる。

 ○その後、「ローマ人」や「ゲルマン人」の勢力拡大で端っこに追いやられ、現在の「アイルランド」「イギリスのスコットランド」「イギリスのウェールズ」に「ケルト人」のDNAを受け継いだ人が住んでいる。緑色の「ケ」で表現した場所だ。

 ○「ローマ人」がキリスト教を国家の宗教と認めてから、その影響で5世紀ごろから「アイルランド」にも「一神教」のキリスト教が広まったが、「多神教」の影響を色濃く残す「ケルト文化」は滅びることなく今も残るのである。

 ○ちなみに「ケルト人」の「アイルランド」は、「ゲルマン人」の一派「アングロ・サクソン族」の「イングランド」に支配された。19世紀後半、多くの貧しい「アイルランド人」は豊かさを求めて大西洋を渡りアメリカに移住。そんなアイルランド移民(=アイリッシュ)がボストンでつくったバスケットボールチームが「ボストン・セルティックス」であり、シンボルカラーは「ケルト人」の象徴である「緑」。チーム名も「ケルト=Celt」の形容詞系である「Celtic=セルティック」を使用している。



 ○上は現在の地図だが、我々が「イギリス」といっている国は正式名は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」。黒い太線で囲んだところだ。「イギリス」は和製英語で世界中で「イギリス」といってもまったく通用しない。

  現在の「イギリス」の国旗(=ユニオン・ジャック)は、「イングランド」+「スコットランド」+「アイルランドの聖パトリック」を合体させたもの。やっぱり「イングランド」が一番上。「ウェールズ」は無視されているのかな(その理由を知っている人は教えて)?



  「アイルランドの聖パトリック」とは、キリスト教を広めたアイルランドの聖人で、シンボルとして以下の旗が使用されていたが、現在、「イギリス」に残った「北アイルランド」、「イギリス」から独立した「アイルランド」ではこの旗は公式には使用されないようだ。



  「イギリス」は4つの地域からなっており、以上のようにそれぞれが国旗みたいなのを持っているし、サッカーのW杯には「イギリス」統一チームではなく、「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」「北アイルランド」がそれぞれのチームで予選を出場している。

  「4つの地域」と表現したが、日本の「近畿」「関東」などとはまったく意味の違う歴史的に根深い支配・被支配の歴史があり、現に「スコットランド」などは2014年に「イギリス」から独立するかしないかの住民投票までやった(結局「独立せず」が僅差で勝利)。

  むちゃくちゃ簡単に表現すると・・・

 「イングランド」=あとからブリテン島にやってきたゲルマン民族(アングロ・サクソン系)で、他を支配して「イギリス」を建国して今もなお中心的存在。

 「スコットランド」=北へ追いやられた「ケルト」が中心。「イギリス」からの独立心あり。

 「ウェールズ」=西へ追いやられた「ケルト」が中心。「イギリス」からの独立心はあまりない。

 「北アイルランド」=アイルランド島に追いやられた「ケルト」よりもイングランドからの移住者が多く、結局「イギリス」に残った。これが原因で1980年代まで内戦が続いた。

 「アイルランド共和国」=アイルランド島においやられた「ケルト」が中心。アメリカへの移民が多い。1922年に「イギリス」から独立した。スペースの関係で現在の国旗が表現できなかったので、下に掲載します。



  要するに後からやってきた「イングランド」が他を支配して、「イングランド」が中心となって「イギリス」が建国されたということ。このへん、何でもどこでも「後からやってきた」方が「先にいる」より強いのだ。アメリカ先住民族しかり、オーストラリアのアボリジニしかり、北海道のアイヌしかり、メダカしかり、鮒(ふな)しかり・・・。  

(4)なぜ「ジャック・オー・ランタン」? なぜカボチャ?

 ○その昔、アイルランドにジャックという酔っ払いの悪人がおり、死後に天国から追い出され悪魔にも嫌われて、地獄からも締め出された。そこで安らぎの地を求めて彼は永遠に世界中を放浪するが、そのとき暗い足元を照らすために「カブ」をくりぬいてランタンを作った。このお話がアメリカ に伝わって、「カブ」になじみのないアメリカ人がアメリカ大陸原産の「カボチャ」にしたという。

(5)「Trick or Treat(お菓子をくれないといたずらするぞ)」の由来?

 ○ヨーロッパで祭り用の食料をもらって歩いた農民の様子をまねたもので、今から1000年以上前の中世の名残と言われている。

 ○子供たちに訪問される地域の大人たちは、あらかじめお菓子を大量に用意して待っている。地域の大人たちと子供たちが交流できる機会になっている。

 ○なお、1992(平成4年)10月、アメリカのルイジアナ州でハロウィンの仮装をした16歳の日本人留学生が、銃マニアで近所の動物を射殺する愚行を繰り返していた男の家にアメリカ人の友人と一緒に間違って訪問していまい、射殺された事件があったことを忘れてはならない。

(6)なぜ仮装するのか?

 ○10月31日の夜は、この世とあの世の境目がなくなり、あの世の「悪霊」「死者の霊」たちがあの世からこの世にやってくると信じられていた。それで、人々はそれぞれ仮装して「悪霊」たちの目をくらまして自分に乗り移らないようにしたという。

 ○「ケルト人」にとって10月31日は、日本人の「大晦日」と「お盆」に当たるのだろう。



(7)いつから日本でも「ハロ」をやるようになったか?

 ○1983(昭和58)年に東京・原宿の「キディランド」が始めた「ハロウィン仮装パレード」が最初か。ただこれはあくまで子供向けで、大人も参加できる形態が広まったのは、1997(平成9)年に東京ディズニーランドが行った「ディズニー・ハロウィーン」が最初とされる。

 ○同じく1997(平成9)年、神奈川県川崎市のJR川崎駅周辺の商店街活性化のために企画された仮装イベント「カワサキ・ハロウィン」が最初である、という意見もある。

(まとめ)

 ○以上みてきたように、何かをきっかけに自社製品の販売拡大(入場者増加)を狙った企業が仕掛け人となって、キリスト教やケルト文化と何の関係もない日本で「バレンタインデー」や「ハロ」は一般的となっていった。それに昔から何かとイベント好きな日本人の気質がプラスされたのだろう。

 ○実は「クリスマス」もそうで、なんと1900(明治33)年に食料品販売の明治屋が銀座に進出して、クリスマス商戦を始めたことがきっかけとされる。

 ○とりあえず生徒諸君はこれらのイベントを楽しむのは結構だが、その本来の意味ぐらいは知ってほしいし、そのイベントが世界中に通用するわけではないことを知っていてほしい。

 ○キリスト教の宗教行事である「クリスマス」「バレンタインデー」「イースター」を、もちろんユダヤ教徒やイスラム教徒はお祝いしないし、全世界が10月31日に仮装して繁華街を練り歩いているわけではない。

 ○異教徒の祝祭や異民族の祭典をいつの間にかすんなりと多くの人が受け入れ、今一つ意味が分からないまま「ハッピーハロウィン」「メリークリスマス」と騒いでいるのは、宗教や異文化に対する日本的寛容のあらわれであり、高校生ぐらいまでなら「知らんかった」で許されるが、大人ならしっかりとその意味を理解して、ばか騒ぎするならするで公共のマナーを守ったものであってほしい。

 ○偉そうにかく言う自分であるが、自分が幼年時代は父母と共に「メリークリスマス」と祝ってケーキを食べ、「きよしこの夜」の歌詞の「すくいのみこは」が「救いの御子は」であることを高校時代は知らなかったし、自分の息子らには当然のようにクリスマスプレゼントを枕元に置いた。さすがに息子らの時はハロウィンはなかったが、もしかすると来るべき将来、孫に「ハッピーハロウィンでちゅね」と自ら仮装してお菓子をあげているかもしれない。トホホである。



※このブログで掲載したイラストは[かわいい無料イラスト素材集『フレームイラスト』]より。

女子バレーボール部 練習試合

2016-10-30 11:01:00 | クラブ
今日は追手門学院高校で練習試合を行なっています。
なんと7校が参加!こんな機会はなかなかありません。
新人大会まで1ヶ月を切りました。この時期に、たくさんの学校と練習試合ができるのは部員にとってはとても良い機会です。
2部昇格にむけて、部員一同日々頑張っています!応援宜しくお願いします!