9月上旬に観光学最後のフィールドワークで訪問予定の大阪城。例によって[国土地理院]の[地図・空中写真閲覧サービス]にあった写真を時系列で並べてみよう。
1948(昭和23)年
アメリカ軍が撮影したもので、空襲の被害の生々しい跡が随所に見ることができる。写真右下にたくさんある丸い穴のようなものは、おそらく1トン爆弾でできたものだろう。
戦災地図
時代は一足飛びに1975(昭和50)年。ちょうど本校が創立した年。もちろん大阪城ホールやビジネスパークはまだない。JR森ノ宮駅から入った「大阪城の東側」、現在「噴水」や「市民の森」「記念樹の森」と呼ばれているエリアや野球場の整備が進んでいる。
そして1989(平成元)年。ようやく大阪城ホールやビジネスパークが登場する。
2007(平成19)年
上の4枚で「大阪城の東側」の変遷がよくわかるが、このエリアにかつて「東洋一の軍需工場」があったことを知る人は少ない。その工場があったがゆえに、大阪城の周辺はアメリカ軍の空襲から免れることはできず、大阪城も多くの櫓や土塀を焼失した。
その「軍需工場」はどれほどの規模であったのか興味がわいてきた。
以下次号
1948(昭和23)年
アメリカ軍が撮影したもので、空襲の被害の生々しい跡が随所に見ることができる。写真右下にたくさんある丸い穴のようなものは、おそらく1トン爆弾でできたものだろう。
戦災地図
時代は一足飛びに1975(昭和50)年。ちょうど本校が創立した年。もちろん大阪城ホールやビジネスパークはまだない。JR森ノ宮駅から入った「大阪城の東側」、現在「噴水」や「市民の森」「記念樹の森」と呼ばれているエリアや野球場の整備が進んでいる。
そして1989(平成元)年。ようやく大阪城ホールやビジネスパークが登場する。
2007(平成19)年
上の4枚で「大阪城の東側」の変遷がよくわかるが、このエリアにかつて「東洋一の軍需工場」があったことを知る人は少ない。その工場があったがゆえに、大阪城の周辺はアメリカ軍の空襲から免れることはできず、大阪城も多くの櫓や土塀を焼失した。
その「軍需工場」はどれほどの規模であったのか興味がわいてきた。
以下次号