
水野さんの「資本主義の終焉と歴史の危機」は5章まであります。
本日は第2章までの概要をお伝えします。
詳細は本書をご確認ください。
(はじめに―資本主義が死ぬとき)
資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、
「周辺」つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって
「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム。
現在、日本を筆頭にアメリカやユーロ圏でも政策金利はおおむねゼロ。
10年国債利回りも超低金利となり、いよいよ資本の自己増殖が不可能になってきている。
つまり、「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも
「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなってきている。
最も重要な点は、中間層が資本主義を支持する理由がなくなってきていることです。
自分を貧困層に落としてしまうかもしれない資本主義を
維持しようというインセンティブがもはや生じないのです。
(1章 資本主義の延命策でかえって苦しむアメリカ)
もはや利潤をあげる空間がないところで無理やり利潤を追求すれば、
そのしわ寄せは格差や貧困という形をとって弱者に集中する。
資本主義が経てきた歴史的なプロセスをつぶさに検証すれば、
成長が止まる時期が「目前」と言っていいほど近くまで迫っている。
それは、中世封建システムから近代資本システムへの転換と同じ意味で、
経済システムの大きな転換を迫るもの。
昨今の先進各国の国債利回りに着目すると、
際立った利子率の低下が目立つ。
1997年までの歴史の中で、最も国債利回りが低かったのは、
17世紀初頭のイタリア・ジェノヴァ。
ジェノヴァでは、金利2%を下回る時代が11年間続いた。
日本の10年国債利回りは、400年ぶりにそのジェノヴァの記録を更新し、
2.0%以下という超低金利が20年近く続いています。
経済史上、極めて異常な状態に突入しているのです。
なぜ、利子率の低下が重大事件なのかと言えば、
金利はすなわち、資本利潤率とほぼ同じだと言えるからです。
資本を投下し、利潤を得て資本を自己増殖させることが
資本主義の基本的な性質なのですから、利潤率が極端に低いということは、
すでに資本主義が資本主義として機能していないという兆候です。
投資がすでに隅々まで行き渡ってしまい、
「革命」と言えるほどに利子率が低下したのです。
これが「利子率革命」です。
1970年代には、
オイルショック。ベトナム戦争の終結がありました。
これらの出来事は、「もっと先へ」と「エネルギーコストの不変性」という
近代資本主義の大前提の二つが成立しなくなったことを意味しているのです。
アメリカは、近代システムに代わる新たなシステムを構築するのではなく、
別の「空間」を生み出すことで資本主義の延命を図りました。
すなわち「電子・金融空間」に利潤のチャンスを見つけ、
「金融帝国」化していくという道でした。
アメリカの金融帝国化は、決して中間層を豊かにすることはなく、
むしろ格差拡大を推し進めてきました。この金融市場の拡大を後押ししたのが
新自由主義だったからです。新自由主義とは、政府よりも市場のほうが
正しい資本配分ができるという市場原理主義の考え方であり、
アメリカではレーガノミックス以来引き継がれてきました。
資本配分を市場に任せれば、労働分配率を下げ、
資本側のリターンを増やしますから、
富む者がより富み、貧しい者がより貧しくなっていくのは当然です。
これはつまり、中間層のための成長を放棄することにほあかなりません。
従来、マネーは銀行の信用創造によってつくられていました。
それには家計の所得が増加してある程度、貯蓄率が高くならなければならない。
しかし、1970年代半ば以降、利潤率は低下し所得の増加率が鈍化してしまった。
そこでアメリカ政府は、商業銀行の投資銀行化を政策的に後押ししたのです。
金融・資本市場を自由化し、資産価値の値上がりによって利潤を極大化するほうが、
資本家にとってみればはるかに効率的だからです。
マネーが銀行の信用創造機能によってつくられるときの主役は労働者であり、
商業銀行です。ところが、金融・資本市場でマネーをつくろうとすれば、
主役は投資銀行となります。こうして、貯蓄行為を行う家計は
「地理的・物理的空間」から主役の座を降り、その座を
「電子・金融空間」において、巨額の資金をボタン一つで、
国境を自由に越えて動かすことができる資本家に譲り渡したのです。
国境の内側で格差を広げることも厭わない「資本のための資本主義」は、
民主主義も同時に破壊することになります。
民主主義は価値観を同じくする中間層の存在があって
はじめて機能するのであり、多くの人の所得が減少する中間層の没落は、
民主主義の基盤を破壊することにほかならないからです。
マネタリスト的な金融政策の有効性は1995年で切れています。
根拠としている貨幣数量説は、貨幣の流通速度が長期的には一定のもと
「貨幣の数量が物価水準を決定する」という理論。
Mv=PT(Mは貨幣数量、vは流通速度、Pは物価水準、Tは取引量)
つまり、通貨量Mを増やせば、取引量あるいは物価が上昇するというもの。
しかし貨幣流通速度が一定であるという前提が、低金利のもとでは崩れている。
さらに取引量の中には、実物経済だけでなく金融経済の取引きが多く含まれている。
つまりグローバリゼーションによって金融経済が全面化してしまった現代では、
通過量を増やしても国内の物価上昇につながらないのです。
「電子・金融空間」のなかで資本が増殖することで、もたらされるのは
バブルの生成と崩壊であり、その結果引き起こされるのが過剰債務と賃金低下です。
これまでバブルが崩壊するたびに、世界経済は大混乱しましたが、
皮肉なことに更なる成長信仰の強化が行われてきました。
巨大バブルの後始末は、金融システムの危機を伴うので
公的資金が投入され、そのツケは国民に及びます。
まさに「富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」
ことになっていて、ダブル・スタンダードがまかりとおっています。
(2章 新興国の近代化がもたらすパラドックス)
1970年代半ばに現代の「価格革命」が始まりました。
原油など資源価格が高騰したせいで、企業はそれまでのように利潤をあげることが
できなくなり、その利潤の減少分を賃金カットによって補おうとしたのです。
1865年から130年間、
イギリスなどでは名目GDPの増加率と同じだけ雇用者報酬も増えていました。
ところが1999年以降、企業の利益と雇用者報酬とが分離し、
日本でも好不況にかかわらず実質賃金は激しく低下しています。
資本側はグローバリゼーションを推進することによって、
資本と労働の分配構造を破壊しました。国境にとらわれることなく
生産拠点を選ぶことができるようになったのです。
景気回復も資本家のためのものとなり、
民主主義であったはずの各国の政治も資本家のために法人税率を下げたり、
雇用の流動化といって解雇をしやすい環境を整えたりしているのです。
21世紀の価格革命とは、
それまでの国家と資本の利害が一致していた資本主義が維持できなくなり、
資本が国家を超越し、資本に国家が従属する資本主義へと変貌を示すもの。
16世紀以来、500年かけて、人類は国家・国民と資本の利害が一致するように
資本主義を進化させてきましたが、21世紀のグローバリゼーションは
その進化を逆転させようとしています。
資本が国境を越えられなかった1995年までは、
国境の中に住む国民と資本の利害は一致していましたから、
資本主義を民主主義は衝突することがなかったのです。
現在のグローバリゼーションで何が起きるかというと、
豊かな国と貧しい国という二極化が、
国境を越えて国家の中に現れることになります。
イタリアの歴史社会学者ジョヴァンニ・アリギによれば、
(その国の資本主義経済が成熟することで)資本が健全な投資先を失い、
利潤が下がると、金融拡大の局面に入っていく。
それと同時にその国の覇権が終わる。利子率の推移はそのことを示しています。
16世紀以降、どの国でも最初は実物経済の下で利潤率が上がるが、
資本蓄積が進むと投資効率は低下する。
したがって、最も成長した国の金利が趨勢的に下がっていく。
(多田コメント)
水野さんは利子率の変動など長い資本主義の歴史を調べ、
資本主義の発展段階を分析しています。
現在の日本の状況をよく説明できていると思います。
非常に重要な本だと思います。
みなさんは、いかがお感じでしょうか。
残りの章については
後日報告します。
本日は第2章までの概要をお伝えします。
詳細は本書をご確認ください。
(はじめに―資本主義が死ぬとき)
資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、
「周辺」つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって
「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム。
現在、日本を筆頭にアメリカやユーロ圏でも政策金利はおおむねゼロ。
10年国債利回りも超低金利となり、いよいよ資本の自己増殖が不可能になってきている。
つまり、「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも
「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなってきている。
最も重要な点は、中間層が資本主義を支持する理由がなくなってきていることです。
自分を貧困層に落としてしまうかもしれない資本主義を
維持しようというインセンティブがもはや生じないのです。
(1章 資本主義の延命策でかえって苦しむアメリカ)
もはや利潤をあげる空間がないところで無理やり利潤を追求すれば、
そのしわ寄せは格差や貧困という形をとって弱者に集中する。
資本主義が経てきた歴史的なプロセスをつぶさに検証すれば、
成長が止まる時期が「目前」と言っていいほど近くまで迫っている。
それは、中世封建システムから近代資本システムへの転換と同じ意味で、
経済システムの大きな転換を迫るもの。
昨今の先進各国の国債利回りに着目すると、
際立った利子率の低下が目立つ。
1997年までの歴史の中で、最も国債利回りが低かったのは、
17世紀初頭のイタリア・ジェノヴァ。
ジェノヴァでは、金利2%を下回る時代が11年間続いた。
日本の10年国債利回りは、400年ぶりにそのジェノヴァの記録を更新し、
2.0%以下という超低金利が20年近く続いています。
経済史上、極めて異常な状態に突入しているのです。
なぜ、利子率の低下が重大事件なのかと言えば、
金利はすなわち、資本利潤率とほぼ同じだと言えるからです。
資本を投下し、利潤を得て資本を自己増殖させることが
資本主義の基本的な性質なのですから、利潤率が極端に低いということは、
すでに資本主義が資本主義として機能していないという兆候です。
投資がすでに隅々まで行き渡ってしまい、
「革命」と言えるほどに利子率が低下したのです。
これが「利子率革命」です。
1970年代には、
オイルショック。ベトナム戦争の終結がありました。
これらの出来事は、「もっと先へ」と「エネルギーコストの不変性」という
近代資本主義の大前提の二つが成立しなくなったことを意味しているのです。
アメリカは、近代システムに代わる新たなシステムを構築するのではなく、
別の「空間」を生み出すことで資本主義の延命を図りました。
すなわち「電子・金融空間」に利潤のチャンスを見つけ、
「金融帝国」化していくという道でした。
アメリカの金融帝国化は、決して中間層を豊かにすることはなく、
むしろ格差拡大を推し進めてきました。この金融市場の拡大を後押ししたのが
新自由主義だったからです。新自由主義とは、政府よりも市場のほうが
正しい資本配分ができるという市場原理主義の考え方であり、
アメリカではレーガノミックス以来引き継がれてきました。
資本配分を市場に任せれば、労働分配率を下げ、
資本側のリターンを増やしますから、
富む者がより富み、貧しい者がより貧しくなっていくのは当然です。
これはつまり、中間層のための成長を放棄することにほあかなりません。
従来、マネーは銀行の信用創造によってつくられていました。
それには家計の所得が増加してある程度、貯蓄率が高くならなければならない。
しかし、1970年代半ば以降、利潤率は低下し所得の増加率が鈍化してしまった。
そこでアメリカ政府は、商業銀行の投資銀行化を政策的に後押ししたのです。
金融・資本市場を自由化し、資産価値の値上がりによって利潤を極大化するほうが、
資本家にとってみればはるかに効率的だからです。
マネーが銀行の信用創造機能によってつくられるときの主役は労働者であり、
商業銀行です。ところが、金融・資本市場でマネーをつくろうとすれば、
主役は投資銀行となります。こうして、貯蓄行為を行う家計は
「地理的・物理的空間」から主役の座を降り、その座を
「電子・金融空間」において、巨額の資金をボタン一つで、
国境を自由に越えて動かすことができる資本家に譲り渡したのです。
国境の内側で格差を広げることも厭わない「資本のための資本主義」は、
民主主義も同時に破壊することになります。
民主主義は価値観を同じくする中間層の存在があって
はじめて機能するのであり、多くの人の所得が減少する中間層の没落は、
民主主義の基盤を破壊することにほかならないからです。
マネタリスト的な金融政策の有効性は1995年で切れています。
根拠としている貨幣数量説は、貨幣の流通速度が長期的には一定のもと
「貨幣の数量が物価水準を決定する」という理論。
Mv=PT(Mは貨幣数量、vは流通速度、Pは物価水準、Tは取引量)
つまり、通貨量Mを増やせば、取引量あるいは物価が上昇するというもの。
しかし貨幣流通速度が一定であるという前提が、低金利のもとでは崩れている。
さらに取引量の中には、実物経済だけでなく金融経済の取引きが多く含まれている。
つまりグローバリゼーションによって金融経済が全面化してしまった現代では、
通過量を増やしても国内の物価上昇につながらないのです。
「電子・金融空間」のなかで資本が増殖することで、もたらされるのは
バブルの生成と崩壊であり、その結果引き起こされるのが過剰債務と賃金低下です。
これまでバブルが崩壊するたびに、世界経済は大混乱しましたが、
皮肉なことに更なる成長信仰の強化が行われてきました。
巨大バブルの後始末は、金融システムの危機を伴うので
公的資金が投入され、そのツケは国民に及びます。
まさに「富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」
ことになっていて、ダブル・スタンダードがまかりとおっています。
(2章 新興国の近代化がもたらすパラドックス)
1970年代半ばに現代の「価格革命」が始まりました。
原油など資源価格が高騰したせいで、企業はそれまでのように利潤をあげることが
できなくなり、その利潤の減少分を賃金カットによって補おうとしたのです。
1865年から130年間、
イギリスなどでは名目GDPの増加率と同じだけ雇用者報酬も増えていました。
ところが1999年以降、企業の利益と雇用者報酬とが分離し、
日本でも好不況にかかわらず実質賃金は激しく低下しています。
資本側はグローバリゼーションを推進することによって、
資本と労働の分配構造を破壊しました。国境にとらわれることなく
生産拠点を選ぶことができるようになったのです。
景気回復も資本家のためのものとなり、
民主主義であったはずの各国の政治も資本家のために法人税率を下げたり、
雇用の流動化といって解雇をしやすい環境を整えたりしているのです。
21世紀の価格革命とは、
それまでの国家と資本の利害が一致していた資本主義が維持できなくなり、
資本が国家を超越し、資本に国家が従属する資本主義へと変貌を示すもの。
16世紀以来、500年かけて、人類は国家・国民と資本の利害が一致するように
資本主義を進化させてきましたが、21世紀のグローバリゼーションは
その進化を逆転させようとしています。
資本が国境を越えられなかった1995年までは、
国境の中に住む国民と資本の利害は一致していましたから、
資本主義を民主主義は衝突することがなかったのです。
現在のグローバリゼーションで何が起きるかというと、
豊かな国と貧しい国という二極化が、
国境を越えて国家の中に現れることになります。
イタリアの歴史社会学者ジョヴァンニ・アリギによれば、
(その国の資本主義経済が成熟することで)資本が健全な投資先を失い、
利潤が下がると、金融拡大の局面に入っていく。
それと同時にその国の覇権が終わる。利子率の推移はそのことを示しています。
16世紀以降、どの国でも最初は実物経済の下で利潤率が上がるが、
資本蓄積が進むと投資効率は低下する。
したがって、最も成長した国の金利が趨勢的に下がっていく。
(多田コメント)
水野さんは利子率の変動など長い資本主義の歴史を調べ、
資本主義の発展段階を分析しています。
現在の日本の状況をよく説明できていると思います。
非常に重要な本だと思います。
みなさんは、いかがお感じでしょうか。
残りの章については
後日報告します。