くろちゃんの甲府城つづりⅡ

やまなしの甲府城跡や文化財のようすや活動を、
くろちゃんと仲間たちがなんとなく紹介するため再登場!

徽典館の成り立ち

2016年08月30日 | 甲府城日記
暑い中にも わずかに秋の気配を感じて、萩の花の様子を見に尊体寺に行って来ました。
お寺の入り口から並ぶ萩の植え込みの中、早咲きの白い萩が咲き始めていましたよ。
その中に建つ石碑は、徽典館の前身である甲府学問所の教授(後に学頭)に起用された富田武稜のお墓です。



江戸時代 商品経済の発達により教育を必要とする機運が高まり、松平定信の寛政の改革により学問振興が行われました。
藩校の整備が遅れていた甲府城下でも本格的な教育機関として、学問所が設立されたのです。
寛政8年(1796)に甲府勤番師弟の教育を目的に、勝手小普請役の富田武稜を教授に起用して甲府学問所として 勤番役邸に開校し、享和3年(1803)には甲府城追手門南に学舎が新築され、庶民にも開放されたのだとか・・・・・
この時 大学頭の林述斎により「徽典館」と命名され、松平定信筆の扁額が掲げられたのだそうです。
「徽典館」は現在の山梨大学の前身です。
校長にあたる学頭には、江戸に設けられた教育機関「昌平校」から毎年2名ずつ人が派遣されており、その中には江戸に戻ってから、幕末から明治維新にかけて、開けた考え方と行動により、日本の近代化の礎となった人たちがいたのだそうです。
また 教育を受けた勤番士の中にも優秀な人物がでているのです。
その人は また次回ご紹介いたします         (か)


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