くろちゃんの甲府城つづりⅡ

やまなしの甲府城跡や文化財のようすや活動を、
くろちゃんと仲間たちがなんとなく紹介するため再登場!

甲府城主。~吉保さんパート④~

2016年08月27日 | 甲府城日記
こんにちは~
先日、柳沢吉保の奥さん正親町町子の日記『松蔭日記』をご紹介する中で、吉保が甲斐国主となったのが
宝永元年(1704)ですよ~なんてチラっと触れましたが、この年の12月に将軍綱吉から甲斐と駿河の国(の一部)
合わせて約15万石と甲府城を与えるとのお達しがありました。(翌年、駿河の領地を返上し、改めて甲斐国三郡(山梨・八代・巨摩郡)を与えられます)
せっかくですので、その時の記事を『徳川實紀』からご紹介したいと思います(宝永元年十二月廿一日条より)
  

(要約すると)「吉保の長年の忠勤には言葉も尽くしようがない。彼の仕事ぶりは内にも外にもひとつの漏れもない
その功労に報いるため「甲斐の府城を賜はるべし」。甲斐国は徳川家宣(後の6代将軍)の領地で、
そもそも臣下へ与えるような国ではないが、吉保のことを我が一族と同じように思っている。(この3年前には吉保に「松平」姓を与えています
また、(甲斐は吉保の)先祖の地でもあるから与えるのだ」と、綱吉からその旨を記した御手紙を下されたという内容で、
同様の記事が『松蔭日記』にも見られ、「あまりに畏れ多いことで、現実のこととも思えない」とあります

もう…なんと申しますか、綱吉の吉保への信頼ぶりが物凄く出ている記事ですよね
今まで徳川家一門にしか統治を許されなかった甲斐の国を一臣下に特別に与えるというので、
綱吉もまた、言葉を尽くして説明している感じです
何しろ吉保はポッと出の新興大名ですから、こんな異例の待遇を受ければ色々言われるのは目に見えています
でも、綱吉としても精一杯報いたいという中での、「先祖の地でもあるから」という理由付けだったのかもしれませんね


※『徳川實紀』:
19世紀前半、12代将軍家慶の時に編纂された、江戸幕府公式記録の総称。
各将軍の代ごとに事象をまとめて記録してあり、綱吉の代の正式名称は『常憲院殿御實紀』といいます。上記引用は巻五十より
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