沖縄の反基地闘争が知事を先頭に空前の高まりを見せている。本土の捨て石になった沖縄戦から七十年。再び犠牲を強いてはならない。
名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前。新基地の建設に反対して座り込む人々の中に八十五歳の島袋文子さんがいる。
地元の集落に一人で暮らす島袋さんは昨年夏から、雨の日も風の日も休まずに朝から座り込みに加わる。島袋さんにとって辺野古は、日本を再び「戦争のできる国」にしない闘いの最前線という。
◆血の泥水すする15歳
ジュゴンが生息するサンゴ礁の大浦湾に沖縄防衛局の船が物々しく停泊する。その光景は、島袋さんに沖縄戦を思い起こさせる。
先の大戦で沖縄は米国との本土決戦を遅らせる“捨て石”だった。
一九四五年三月二十六日、米軍艦隊は沖縄本島西の慶良間諸島に上陸。猛攻撃によって、日本軍が組織的戦闘を終える六月二十三日までに全土を壊滅状態にした。
日本軍は住民に軍と一体となった戦いを強いながら、スパイ行為を疑って方言を禁じた。手りゅう弾を配り、捕虜になるよりも「自決」を促した。肉親同士が手をかけての集団自決は沖縄戦の壮絶さを象徴する。餓死、病死者を含め、県民の四人に一人、約十五万人が犠牲になった。
十五歳だった島袋さんの古里、糸満市も激戦地となった。累々と死体が横たわる戦場を目の不自由な母の手を引き、十歳の弟を連れて逃げた。昼は木陰に隠れ、夜に移動した。のどが渇き夢中で水たまりの泥水をすすった。
翌朝、その水たまりには血だらけの死体が横たわっていた。
親子で身を潜めていた壕(ごう)を米軍に火炎放射で焼かれ、全身に大やけどを負った。捕虜となって命を取り留めたが、生涯足を引きずる傷が残った。
◆琉球処分の総仕上げ
沖縄の戦後はこの悲惨な体験に報いるものではなかった。本土と異なる戦争が継続する島だった。
一九七二年の施政権返還まで戦後二十七年間、米軍施政権下に置かれた。基地周辺ではレイプなど米軍犯罪が頻発。本土復帰後も治外法権は変わらず、平和や人権の憲法よりも日米安保条約や日米地位協定が優先された。ベトナム戦争ではB52爆撃機の出撃基地になり、湾岸、イラク戦争では海兵隊が沖縄から出撃していった。
狭い県土に広大な基地がある。フェンスの向こうには迷彩服で銃を構える兵士の姿がある。沖縄には常に戦争が隣り合わせていた。
宜野湾市の米海兵隊普天間飛行場の移設先として、辺野古に造られようとしているのは、二百年は使える最新鋭の基地だ。オスプレイを搭載する強襲揚陸艦が接岸できる軍港機能も備え、沖縄の軍事基地化はより強固になるだろう。
沖縄に新たな基地負担を強いる計画に県民の怒りは頂点にある。
仲井真弘多前知事を公約を翻して建設を認めたのは無効だと、昨秋の県知事選で落選させた。衆院選では全選挙区で反基地派を当選させた。翁長雄志新知事は作業停止を指示した。
安倍晋三首相や官房長官は新知事に一度も会わず、掘削調査を強行する。沖縄の怒りに鈍感すぎないか。かつて自民党の幹部には沖縄への罪責感から思いを寄せる人が少なくなかった。
野中広務元官房長官はたびたび沖縄を訪れ「沖縄を忘れることは、第二次大戦を忘れること。戦争の恐ろしさを忘れないためにも沖縄を絶対に忘れてはいけない」と語り、遺骨の一部を慰霊塔に納めてほしいと望んだ。そんな自民の心はどこにいったか。
集団的自衛権の閣議決定と安保法制の整備によって、安倍政権は戦争のできる国に進んでいるようにみえる。辺野古に何がなんでも新基地を造る姿勢だ。
那覇市在住の作家大城立裕さんは語る。「日本政府は沖縄の歴史に対する反省もなく、沖縄を軍事植民地のように扱い続ける。社会的差別は薄らいでも、政治に差別が残っている。辺野古の新基地は、明治以来の琉球処分の総仕上げだ」。百五十年続く差別と犠牲の歴史。基地の県外、国外移転が真剣に考えられてもいいのではないか。
◆両手を上げて抵抗
沖縄戦で無念に死んでいった人や子孫の未来を思いながら、島袋さんは今日も座り込みに連なる。「国を守るだなんて言う人は、血の泥水をすすってから言ってごらん。自衛隊を戦場に行かせて、格好いいのか、面白いのか。その目で見てから辺野古に基地を造ると言ってごらん」
沖縄戦で島袋さんは、大やけどを負った両手を上げて壕から投降した。今、その両手を上げ、基地建設のトラックの前に立ちはだかる。それは七十年前、十五歳の少女にかなわなかった抵抗の姿だ。