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「助けて」と言える社会に 元厚労省事務次官・村木厚子さん 瀬戸内寂聴さんらと女性支援プロジェクト 2018.2.22

2018-02-22 21:36:02 | 水光熱 エコ AI 再生エネルギー

特集ワイド

「助けて」と言える社会に 元厚労省事務次官・村木厚子さん 瀬戸内寂聴さんらと女性支援プロジェクト

 
連続講座でマイクを握る村木厚子さん=東京都渋谷区の更生保護会館で1月27日
 

 「溺れている人がわらをつかまずにすむように、ブイを投げられる社会にしたい」。冤罪(えんざい)事件で164日間、拘置所で生活した。エリート官僚として支える側から支えられる側に一瞬にして転じた。その体験が裏打ちする言葉だ。少女や若い女性に寄り添い支援する一般社団法人「若草プロジェクト」の呼びかけ人になった元厚生労働省事務次官、村木厚子さん(62)。官僚時代にはできなかった新しい「福祉」の道を開拓しようとしている。【玉木達也】

 「少女たちが安心して『助けて』と言える社会に」。若草プロジェクトが1月27日、東京都内で開いた連続講座。若い女性らがソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を通じて知り合った男に殺害されたとみられる、神奈川県座間市の事件がテーマだった。公的な機関で相談業務をしている人や病院で働くソーシャルワーカー、施設の少女らの支援活動をする実業家ら男女約70人が参加。村木さんの知人で、冤罪事件をテーマにした映画でも知られる周防正行監督も「勉強のため」に出席した。

 若草プロジェクトは全国で個々に活動する支援者をつなぎ、少女らを取り巻く問題を広く社会に伝え、解決のために何ができるかを学ぶ活動をする。具体的には無料通信アプリ「LINE(ライン)」で相談の受け付けをしたり、東京と京都で連続講座を開いたりしている。6回目の今回は厚労省と総務省の担当者が自殺対策やインターネットの問題について解説。ネット上で自殺対策に取り組むNPO法人の代表が実践的な演習を行った。

 座間事件を繰り返させないために何ができるか。出席者は数人ずつのグループに分かれて議論。「若者がよく利用する飲食店のレシートに相談窓口の連絡先を書く」「自殺未遂経験者が相談相手になる」など、当事者の気持ちになったアイデアが次々と発表された。

 終了後、村木さんは「どうすれば、孤立している彼女たちに支援の手を届けられるのか。とても難しいことだが、その方法について参加者からさまざまな意見が出たのはよかった」と話した。

 
「若草プロジェクト」への思いを語る村木厚子さん

 私が村木さんを初めて取材したのは2004年4月。厚労省障害保健福祉部企画課長として障害者を巡る制度改革に取り組んでいた。それから5年後、この企画課長時代に不正があったとして大阪地検特捜部に逮捕、起訴された。09年6~11月、大阪拘置所に勾留。この時、今につながる原点ともいうべき出来事に遭遇した。

 一貫して容疑を否認する中、ある時、取り調べの合間に、気になっていたことを検事に尋ねた。「あの女の子たちは何をしたのですか」。拘置所で食事や洗濯物の作業をする受刑者たちの多くが若くてかわいらしい。犯罪を犯したように見えなかった。「売春や薬物が多い」との検事の答えに、なぜそんなことをしたのかと疑問が深まった。

 無罪が確定し10年9月、厚労省に復職。冤罪被害者という立場から、検察改革など法務省の仕事が増えた。本業では社会・援護局長などを務め、生活困窮者の対策に力を注いだ。両省をまたいで気がついた。「困窮者支援で福祉が相手にしている人と、刑務所に入っている人は多くの部分で重なっている」。薬物に手を染める若い女性のうち、児童虐待や配偶者暴力(DV)の被害者が高い割合を占めていた。「被害から逃げるための薬物だったり、悪い人に引き込まれての薬物だったりする。犯罪者ではなく、被害者の面がすごくある」と知った。

 この状況から若い女性を助けたい。しかし行政の施策では、一定の年齢を超えた人は法令で福祉の対象から外れてしまう。そこで作家の瀬戸内寂聴さんとともに若草プロジェクトの呼びかけ人になった。設立は16年4月。村木さんは前年10月、事務次官を退任し官から民に活動の舞台を移していた。支援の対象は年齢ではなく、「少女」や「若い女性」とあえてあいまいな表現にした。厚労省の同僚でもあった夫が理事に入り、代表理事は知人で人権問題に詳しい大谷恭子弁護士(東京弁護士会)が務める。

あきらめたら変わらない

 活動を始めてから、ある支援団体の人にこう言われた。「公の福祉はすべての面でJK(女子高生)ビジネスに負けている」。彼らは街に出て若い女性一人一人に「どうしたの?」「ごはん食べた?」「泊まる所あるの?」と声をかけていく。温かい食事を食べさせ、泊まる場所を用意し、働き場を紹介する。これに対し、行政は「困っているなら窓口に来なさい」。このままでは勝てない--。

 連続講座への参加をきっかけに、行政の中にも一歩、踏み出そうとする人たちが現れた。複雑な事情を抱えている子供たちを支援する民間グループのネットワーク作りも進む。「単体では十分な支援ができなくても、支援者同士がつながれば対応できる。どこか1カ所につながれば、全部につながるようにしたい」。さらに「あの子たちの自己責任ではなく、非常に重たい問題を背負っている子が多い。何よりも(JKビジネスなどで)もうけているのは大人だということをもっと知ってほしい」と言葉に力を込める。

 自分自身の体験が根っこにある。全く覚えのない罪である日突然、逮捕された。公務員として人を支える立場から、すべてが誰かの手を煩わせないとできない状態になった。支えられることのありがたさは身にしみている。

 昨年4月から津田塾大総合政策学部で客員教授も務める。初年度は1年生を対象に、障害者や生活困窮者、外交などの問題で第一線で活躍している人たちを招き講義をしてもらった。「世界は一人で変えられるか」がテーマの講義を聴いて、ある学生は「一人の問題からスタートし、一人がそれを解決しようとすることで将来が変わった。一人のことに一人が取り組み始めることが大事と知った」と感想を書いた。

 「ちゃんと理解してくれた」と笑顔を見せる村木さん。「『世の中、こんなもの』とあきらめている限り、何も変わらない」。続けてさらっと出た言葉に、あきらめない人間の迫力を感じた。

 

 

 

 


「定額働かせ放題」社会の到来~非正規の高齢者をドンドン増やし、裁量労働制を適用するつもりなのだ 日刊ゲンダイ

2018-02-22 18:35:16 | 労働 生活一般

「定額働かせ放題」社会の到来

~これから非正規の高齢者をドンドン増やし、裁量労働制を適用するつもりなのだ。

「非正規雇用の高齢者を襲う裁量労働制拡大」日刊ゲンダイ

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訃報「アベ政治を許さない」のスローガンの揮毫(きごう)でも知られた俳人・金子兜太さん98歳 2018.2.21 毎日新聞/ インタビュー「国のため死んでいく制度は我慢できぬ」

2018-02-22 18:05:21 | 紹介


金子兜太さん98歳=俳人 前衛俳句、戦後をリード

 金子兜太さん 98歳=俳人(2月20日死去)

 前衛俳句の旗手として活躍し第二次世界大戦後の俳壇をリードした俳人の金子兜太(かねこ・とうた)さんが20日、誤嚥(ごえん)性肺炎による急性呼吸促迫症候群のため、埼玉県熊谷市内の病院で死去した。98歳。葬儀は近親者のみで営む。後日、お別れの会を開く。喪主は長男真土(まつち)さん。

 

 埼玉県生まれ。1937年、旧制水戸高校在学中に俳句と出合い、加藤楸邨(しゅうそん)に師事した。太平洋戦争下の43年に東京帝国大を卒業後、日本銀行に入るが、すぐに海軍へ。主計中尉として南洋のトラック島へ赴任し、同島で終戦を迎えた。捕虜生活を経て46年に復員。戦後は日銀勤務の傍ら、俳誌「寒雷」「風」を舞台に活躍を開始した。

 思想性と方法意識に富む作品から、「社会性俳句」「前衛俳句」といった新潮流の代表と見なされた。作者が主体性をより強く意識して自由に作句する俳句造型論の提唱など、自らも積極的に論争に参加。同時代の短歌などにも影響を与えた。56年、現代俳句協会賞を受賞。62年、同人誌「海程」を創刊した(のち主宰)。83年、現代俳句協会会長に就任するなど後進の指導にも努めた。2000年から同協会名誉会長。

 90年代以降も旺盛な創作を続け、96年に句集「両神」で詩歌文学館賞、02年に「東国抄」で蛇笏賞、08年に文化功労者に選出された。10年には句集「日常」に至る長年の業績で毎日芸術賞特別賞を受賞。他の句集に「少年」「暗緑地誌」など。種田山頭火や小林一茶の研究でも知られた。「彎曲(わんきょく)し火傷し爆心地のマラソン」「暗黒や関東平野に火事一つ」などが代表句。

 11年秋に胆管がんの手術を受け、今年初めから体調を崩して入院していた。99歳(白寿)を迎える今年秋での「海程」終刊を予定していた。晩年は現政権への批判を強め、「アベ政治を許さない」のスローガンの揮毫(きごう)でも知られた。

 

 

「国のため死んでいく制度は我慢できぬ」 俳人・金子兜太さんインタビュー
 
インタビューに答える俳人の金子兜太さん=埼玉県熊谷市で2015年6月15日、喜屋武真之介撮影
 

トラック島で「捨て石」体験

 戦争における生と死の実態とはどのようなものなのか。そこに皇軍の誉れはあったのか。帝国海軍主計将校として、南洋のトラック島に“捨て石”とされた体験を持つ俳人、金子兜太(とうた)さん(95)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

 敗戦を迎えたトラック島での1年3カ月の捕虜生活を終え、日本への引き揚げ船となった駆逐艦の甲板上で、詠んだ一句です。最後の引き揚げ者200人とともに、島を後にしました。小生の所属部隊を含め、戦死者はらくに1万を超していた。その人たちを思い、復員後の生き方を決意した一句です。

 海軍を志願したのは功利主義からでした。どうせ戦争にとられるなら、一兵卒は嫌だった。東京帝大経済学部在籍時に海軍経理学校の試験にパスし、1943年9月に入学します。その3カ月後が学徒動員でした。同輩、後輩が、随分と死んでしまいました。翌年2月に卒業し、配属されたのが、海軍の拠点が置かれたトラック島。第4海軍施設部の最年少の甲板士官(中尉)でした。

 軍隊は身分制の世界です。上からは将官、将校、下士官、兵卒。さらに募集・徴用で集められた民間の工員がいました。ある日、工作部が手製の手りゅう弾を製作しました。実験をすることになったが、将校・下士官はもとより、兵卒にやらせるわけにもいかない。そこで、工員にやらせろと。ところが、工作部は機械製造などが仕事で、熟練工が多い。貴重だ。施設部は道路工事などの単純な仕事だ。役に立つかどうかでも、命の価値に差があった。「金子中尉、お前のところでやれ」と。1人の工員を選びましたよ。

 ボーン。発火させた途端、手りゅう弾が爆発してしまった。その工員、田村の右腕は吹っ飛び、背中に白い穴がカアーッと開いた。隣にいた落下傘部隊の少尉も海に吹っ飛ばされて、即死でした。ところがね、それを見ていた工員仲間たちが田村を担ぎ上げ、「わっしょい、わっしょい」と病院に駆けだした。

 人間への認識が変わりました。もともと、一旗揚げようと南の島に来た工員ばかりでした。聖戦とか、大東亜共栄圏とか、そうした意識は薄い。けれども、明らかに死んでいても、仲間は放っておかない。俺は人生を甘くみていたんじゃないだろうか。人間って、いいもんだ。「わっしょい、わっしょい」の声は今も耳に残っています。

 サイパン島が陥落したとき、矢野兼武(海軍主計中佐。詩人で、筆名・西村皎三=こうぞう)という元上官が戦死したんです。この人が「金子、句会をやれ。(戦況悪化でトラック島は孤立し)今に食糧が逼迫(ひっぱく)する。皆が暗くなる」と言っていたことを思い出した。その遺言に従い、句会を開きました。

 すると散文詩をやっていた西沢実(戦後、放送作家)という陸軍戦車隊の少尉が、同僚将校を4、5人ほど連れてきた。最上級は少佐です。こちらは工員10人ほどですから、驚いた。しかし、西沢は「関係ねえ。おんなじ人間だ」。たったの3カ月でしたが、すっかりと打ち解けた。無季(季語のない句)も気にしなかった。ただ、戦場は戦場。神経は張り詰めていた。

  空襲よくとがった鉛筆が一本

 その時に詠み、今でも覚えている一句です。

 この句会が打ちきりとなったのは食糧不足が原因。周辺の島々に部隊を分散させ、食糧生産に従事させることになった。工員と事務職員が中心の200人を率い、日本名「秋島」に渡りました。年3回は収穫できる「沖縄100号」というサツマイモを持ち込み、自活するはずだった。ところが、これを食う虫がいることを誰も気付いていなかった。机上の空論でした。「南洋ホウレンソウ」と名付けた青草を海水で煮たりしました。ただし、これは食べ過ぎると腹を下し、体力を奪った。

 官僚組織とはひどいもんです。「栄養失調による病死」にしてしまう。実態は「餓死」。しかし、皇軍に「餓死」は禁句だった。はったりをきかせていた工員たちがみるみると弱っていく。やせ細った餓死者の顔は仏様のようなんですよ。本当に可哀そうでね。他の島との連絡にポンポン船を出せば、見回りの米軍のグラマンが機銃掃射してくる。ズタズタにされる。

 ところが、「あと何人か死ねば、残りを生かすだけの食糧はあるな」などと冷静に考えている自分がいた。人間なんて、浅ましいものです。幹部将校たちはサイパン島が陥落した時点で、この戦争はもう駄目だと思っていた。そうなると女房と子供の顔を見るために内地に帰ることしか、考えていなかった。

 「虚無の島」でした。軍事的価値を失っていましたから、米軍の主力は素通りし、友軍が増援部隊や物資を送ってくるはずもない。工員たちは「捨て子」と自嘲していました。軍事教練などなく、日々の仕事は食糧生産ばかり。やることがない。人間が無感動になっていく。生きる意味を見いだすことができない。レイテ沖海戦で海軍の象徴たる戦艦武蔵が沈没しても、沖縄が陥落しても、仕方がないとの気持ちだけです。

 この島での11カ月間、俳句を一句も詠まなかった。無意識にです。なぜだろうか。それ以前も、その後も、そんなことはなかった。幼少時から、七五調の「秩父音頭」を聞いて育ちました。実家では父が水原秋桜子(俳人、俳句雑誌「馬酔木」=あしび=を主宰)と知人で、句会の支部を作ったりもしていた。俳句がアイデンティティーとして、私は存在している。それがまったく失われていたのに、島では気付きもしなかった。それが戦争なのでしょうか。

  椰子の丘朝焼けしるき日々なりき

  海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

 終戦の詔勅を聞いた後にやっと、俳句が自然と湧いてきた。米軍の収容所では食糧がきちんと与えられましたね。米軍に没収されないように句を書いた小さな紙を丸めて、配給されたせっけんに押し込んで内地に持ち帰りました。

   ◇     ◇

 戦後は日本銀行(従軍前に3日間在籍)に復職しましたが、組合活動をやるなどして、にらまれた。課長にもなれずに退職しました。しかし、東大を頂点とする学閥を軸に作り上げられた人事体制は身分制そのものであり、半封建制だと思った。トラック島で共に過ごした工員たちの生々しさに比べ、この官僚たちは何なのかと。日本は戦争に負けたのに近代化されていなかった。

 
トラック島の麦倉俊三郎31軍司令官は米巡洋艦上で、ムーレイ海軍中将と降伏調印=1945年9月27日

  彎曲し火傷し爆心地のマラソン

 日本人は何を学んだのでしょうか。長崎支店時代の一句です。

 戦後を共に生きた仲間たちも徐々に鬼籍に入っています。皆の名前を毎朝唱え、皆に向き合う「立禅」を続けています。振り返るに戦場での死のむなしさ、異常さを考えずにはいられません。それは「自然死」ではない「残虐死」です。

 集団的自衛権の名の下で、日本が戦争に巻き込まれる危険性が高まっています。海外派兵されれば、自衛隊に戦死者が出るでしょう。政治家はもちろん、自衛隊の幹部たちはどのように考えているのでしょうか。かつての敗軍の指揮官の一人として、それを問いたい。

 トラック島に残した部下たちには実は墓碑などなかった。個々人が生き延びるだけで精いっぱいの中で、できるのは小高い丘の上の穴に埋めることだけでした。国のために働かされ、死んでいくという制度や秩序は我慢できません。無理に生きる必要のない、自由な社会を作っていく。それが俺の思いです。

 かねこ・とうた 1919年、埼玉県生まれ。東京帝大経済学部卒。日本銀行在職中の62年に俳誌「海程」創刊。2008年文化功労者、10年毎日芸術賞特別賞。現代俳句協会名誉会長。

 

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【裁量労働制】施行1年延期 過労死遺族「白紙撤回して下さい」 2018.2.21 田中隆作ジャーナル

2018-02-22 14:33:56 | 労働 生活一般

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【裁量労働制】施行1年延期 過労死遺族「白紙撤回して下さい」

 
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「本当の幸せを私たちは失ってしまいましたけど、これ以上こんな事があってはならない」。夫を長時間労働で失った女性は、衆院公聴会に出席した後感極まり、涙ながらに訴えた。=21日、衆院第16控室 撮影:筆者=

 「悔しいですね」。我が子を過労死で亡くした母親2人が、厚労省のロビーで顔を見合わせ、どちらからともなく呟いた。脇山晴枝さんと佐戸恵美子さんだ。

 脇山さんは出版社勤務の息子を20年前に、佐戸さんはNHK記者だった娘を5年前に、過労死で失っている。

 「全国過労死を考える家族の会」の12人がきょう、加藤勝信厚労大臣との面会を求めて厚労省を訪れた。

 裁量労働制の拡大と高度プロフェッショナル制度※を「働き方関連法案」から削除するよう求めるためだ。(※専門職で年収の高い人を労働時間規制から除外する制度)。

 加藤大臣は公務を名目に不在だったため、田畑裕明政務官と面談した。

 佐戸さんは涙を拭いながら訴えた。「自分の裁量で働くみなし労働制、これは制度を乱用した明らかな人災です。マスコミの方、記者の方、未和の死を無駄にしないで下さい」。

 政務官室ではメディアのカメラが放列を敷いた。ブラック労働のメッカとも揶揄されるテレビ局の面々は、裁量労働制の犠牲となった佐戸未和記者の悲劇をどう受け止めただろうか。

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田畑政務官と面談する「全国過労死を考える家族の会」。政務官に過労死促進法案の廃案を求めた。=21日、厚生労働省 撮影:筆者=


 中原のり子さんは、医師だった夫を長時間労働の果てに失った。

 「120時間働いたら医師の診察を受けさせると言うが、労働者も医師もギリギリまで働いています。今回の法案はぜひ白紙撤回して頂きたい。一年先の施行に私たちは納得しておりません。せめて私達が納得できるような法案をお示しください」。

 中原さんの訴えに田畑政務官は黙って頷く他なかった。

 厚労省に捏造させたデータが誤情報であることを野党議員に見抜かれ、安倍首相は答弁の撤回と謝罪に追い込まれた。反響は大きかった。

 世論の批判をかわすため政府は裁量労働制の拡大と高度プロフェッショナル制度※の施行を一年延期する方針を固めた。

 姑息だ。明らかな目くらましである。過労死を合法化する法案を今国会に提出する方針に変わりはないのだから。

    〜終わり~

  ◇
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【裁量労働制】厚労省ずさん調査 異常データ新たに117件 2018.2.21 毎日新聞

2018-02-22 12:26:08 | 労働 生活一般
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厚労省ずさん調査 異常データ新たに117件

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 裁量労働制に関する厚生労働省のデータを巡り、問題となっている「2013年度労働時間等総合実態調査」に、同じ人の残業時間が1週間よりも1カ月の方が短いなど、異常な数値が新たに87事業場で117件見つかった。立憲民主党の長妻昭代表代行が厚労省の資料を精査して発見し、21日の野党の会合で厚労省幹部が報告した。安倍晋三首相は国会で「データを撤回するとは言っていない」と答弁したが、データの信ぴょう性がさらに揺らいでいる。

 

 また、これまで厚労省が「ない」と説明していたデータの基となる調査票が、20日に厚労省本庁舎の地下倉庫から見つかったことも判明。野党の指摘を受けて調べたところ発見されたといい、問題発覚後の調査の甘さが浮かんだ。

 労働時間等総合実態調査では、全国の1万1575事業場を労働基準監督官が訪問し、その事業場の「平均的な人」に対して、1日▽1週間▽1カ月▽1年の残業時間を聞き取るなどして調べた。こうして一般労働者の1日の労働時間は9時間37分で、企画業務型裁量労働制の9時間16分よりも長いというデータを作成し、国会答弁に使っていた。

 19日に厚労省が公表した資料を長妻氏が精査し、新たに117件の異常な数値を見つけて同省に指摘した。例えば、ある事業場では調査した人の1週間の残業が「25時間30分」だったが、1カ月の残業は「10時間」だった。別の事業場では、1日の残業が「12時間45分」だったが、1週間では「4時間30分」の人がいた。厚労省幹部は「誤記や入力ミスが考えられる」と説明している。

 首相は14日にこのデータを引用した国会答弁を撤回している。20日の衆院予算委員会では「データを撤回すると言ったのではなく、答弁を撤回した」と説明したが、再びデータそのものに疑問点が浮上した形だ。

また、労働基準監督官が調査の際に回答を記入した調査票が厚労省本庁舎の地下倉庫で見つかっていた。当初、担当課のロッカーを調べたが見つからず、「ない」と判断していたが、野党の指摘を受けて確認したところ、20日になって地下倉庫で段ボールに入った状態で見つかったという。

 調査票を巡っては、加藤勝信厚労相が14日の衆院予算委で「なくなっている」と答弁しており、野党は整合性を追及する構えだ。【古関俊樹】

 

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