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セミの終わる頃(8)

2016-12-29 09:46:25 | 小説
「ねえ、今だから聞けるけれど、あなたは何をしにここに来たの?」
「ごめんなさい、この近くで死ぬつもりだったの。
だけれど、この小鹿を見た時に、猟師に撃たれた母鹿に代わって、私が母親になってやろうと思ったの。
死のうと思っていた私が、生きる努力の手助けをするなんて皮肉よね。
本当にこの小鹿に生きる事を教えてもらったのよ。
そして、この子が若い雌鹿を連れて来て、僕のお嫁さんだよと見せに来てくれた時は、すごく嬉しかったの。
生きていて良かった、私はこの小鹿に生かされたんだと思ったの。」
「やっぱりねぇ、私の経験からして最初に会った時にピンときたのよ。そうよ、この子のためにもちゃんと生きないとダメよ。」
「ええ、分かったわ。」

「もう少しあなたのことを聞かせて。」
「ええ、いいわ。小さい頃の私は頑張り屋さんで、何でも自分でやってきたの。
勉強も運動もみんなに負けないように頑張ったの。
会社でも人一倍頑張っていたんだけれど、それは恋人の居ない寂しさを仕事で紛らわしていたのよね。
そして、特別好きでもない妻子の有る男性社員とセックスをしていたのも、現実をごまかしていたのよ。
忙しい時にミスをして会社に損失を被らせてしまった時に、自分は一人ぼっちで恋人ごっこで自分の心をごまかしていたのに気が付いたの。
或る日、仕事の空間に私一人取り残されて、音も無い、風も無い、ただ光だけの世界で、自分の体を突き抜けて行く光を見ていたの。すごく寂しかったわ。」
と治子は吐き出すように、おかみさんに打ち明けた。

窓の外では鹿が、治子とおかみさんとの話を食い入るように聞いていて、心なしか頷いているように見えた。

「商社は評価が厳しいので、大きな失敗を犯すと閑職に配置換えさせられるの、一生懸命に仕事をやってきたのに寂しかったわ。
配置換えになってからは暇となり、抜け殻のようだったの。 
そして、目的の無い旅行に出たの、いいえ、死ぬ場所を探す旅行に出て、ここの駅に下りたの。」

ここまで話した治子は喉のつかえていた物が取れたようにフゥと大きく息を吐いて気持ちが落ち着いた。

「そして、夢も目標も失っていた私が、母親を猟師に撃たれ、自分も傷付いた小鹿を見た時に小鹿を助けなくちぁと思い、死ぬ事だけを考えていた私が、小鹿に生きて、生きて、と叫んだの。
皮肉よね。
今は怪我も治り、私の子供のように甘えてくれて、私の生きる目標ができたの。
この子はお嫁さんをもらって、可愛い小鹿が産まれ、素敵な家族となったのよね。
みんな、みんな生きているのよね、
私も死ななくて良かったと、本当に思っているの。」

「最初にあなたを見た時に、私の永い経験で、この人は自殺するだろうなあとピンときたの。
実はね、あの時小鹿を抱いて帰ってきてくれた男の人はここの従業員なのよ。
あなたが何かやらかすのではないかと思って、あなたを見張るように頼んでいたのよ。
それでなければこんな山間で男性が必要な時にすぐ現れることは無いでしょ。」

「そうだったの。でも助かったわ。」
「それからね、あなたの命の恩人のあの鹿は、あなたに甘えているんじゃなくて、あなたに恋をしているわよ。」
「えっ、鹿が人間に恋をするの?」
「絶対そうよ、あなたを見る鹿の目が潤んでいるもの。」
「あら、そうなの。鹿でも嬉しいわ。でも、雌鹿といつも一緒よ。」
「鹿への恋と人間への恋は別なんじゃない?」
「そうかしら?」

セミの終わる頃(7)

2016-12-28 21:29:50 | 小説
  第三章 小鹿との出会い

次の日、少しこの地の雰囲気に落ち着きを取り戻し、散歩の途中で会社に帰るか死を選ぶかを真剣に考え始めた。

「私はこれまで自分を顧みないで頑張ったわ。
もちろん、時々愚痴はこぼしていたけれど、仕事一筋に頑張ったのよ。
青春を会社に捧げてきたのよ。
一緒に入社した令子もユリも会社を去って行ったけれど、私だけは頑張ったのよ。
そうよ、私のミスで会社に大きな損失を生じさせてしまったけれど、忙しすぎたのよ。
言い訳にしたくないけれど、毎日忙しく疲れていたのよ。
そうよ、私が悪いのではなく、会社も悪くないのよ。
そういう時代なのよ。」

治子は昨日も来た小高い山の中腹で眼下の街並みを眺めながら、今日も決心がつかないでいた。しかし、この場所は治子の気持ちが安らぐところで、昨日もここで半日過ごしていた。今もこの場所で費やしている時間も、頭の中の整理も、昨日となんら変わりが無かった。

治子が予定も無く宿泊し始めてから三日目に、セミが鳴いている近くの丘を散策していた時にパーン、パーンと音がしたので近くへ行ってみると猟師が鹿を仕留めていた。
「最近は鹿が増えて畑の野菜や森の木の芽が被害を受けているので、頭数を減すようにしているんだよ。」
治子は可哀相に思ったが、人間と鹿との共存には仕方無いと納得させられた。

そして、温泉宿に帰っている時に道のすぐ近くの笹藪で何か動いているのに気が付いた。近付いてみると頭から血を流している小鹿で、先ほどの猟師によって母親と死に別れて逃げてきていたのである。 
治子は可哀相に思い温泉宿へ抱いて連れて帰ろうとしたが、小鹿はおびえて暴れるので抑えきれないでいると、
「私が連れて行ってあげましょう。」
と言って年配の男性が現れて小鹿を抱きかかえて旅館に連れて帰ってくれた。

「おかあさん、この子がかわいそうだから私が旅館で介抱をしてやりたいの。」
とお願いをしたところ、
「母親が猟師に射殺されて小鹿だけが残ることがよくあるのよ。」
と教えてくれて、快く引き受けてくれたので治子は安心した。
よく見ると小鹿の傷は弾がかすっただけなので消毒をするだけで大丈夫な様子であり、そのまま温泉宿で治子が面倒をみることにした。

治子は小鹿に対して
「生きて、生きて、私が見守ってあげるから、絶対生きて。」
と言い続けて小鹿の母親代わりとなって一生懸命に面倒をみてやったので、最初はビクビクしていた小鹿も、何日かすると治子の手からエサを食べるようになって、治子を本当の母親のように甘えるようになっていった。
治子は小鹿の死の危機からの脱出と、自分の死への願望とで、自分の心の不思議な対立が感じられた。

宿のおかみさんも、治子の献身的に面倒を看ている姿から、彼女の人柄に安心感を持ち始めたのだった。
治子が初めて旅館に来たときは若い女性が一人で予約も無く宿泊に来たので、今まで不審がられても仕方が無かった。

セミの終わる頃(6)

2016-12-27 21:22:00 | 小説
きしむ廊下を進んで質素な八畳ほどの部屋に案内された治子は、都会の生活からかけ離れた静けさを感じていた。

室内はきれいであるが必要以上の設備は無く、程よい広さとなっていて、宿泊客が自宅にいるようにくつろいでもらうために、布団の上げ下げや浴衣の取り換えや部屋の掃除などは宿泊客に任されているが、それが湯治湯の構わない気配りである。
また、信州を満喫してもらえるようにと日帰りのツアーも用意されているので、急ぐのでもなく暇をもてて余すのでもなく、程よく時間を活用できるように配慮されているのも、湯治客にとってはうれしい配慮である。

「よくいらっしゃいました。あとで結構ですけれど、この宿帳に記入をお願いしますね。ところで、あなたはうちには初めてですよね。よくこんな山間の地にいらっしゃったわね。どなたかからお聞きになっていらっしゃったの?」
「いいえ、まるっきり知らないで来ました。だけれど、私はこういう山間の雰囲気が好きです。」
「こんなお若い方が珍しいわね。何も無いところですけれど、ゆっくりしていってくださいね。」
「ありがとうございます。」

治子はなぜか過去に社内旅行で来たことを話すのをためらったが、今夜の宿を確保できたのでホッとしていた。

「懐かしいわね、昔と全然変わってないし、この籐の椅子も昔のままだわ。」
治子は我が家に帰って来たような安堵感を覚え眠りについた。

次の日、治子は今自分が何処に居るのか知るために朝食後に近くを歩いてみた。
旅館から昨日バスを降りた鹿教湯温泉のバス停に行ってみると、昨日は暗くて良く見えなかったが地元の名勝が八個の案内看板で紹介されていて、ひときわ大きな鹿教湯温泉交流センターの看板が人目を引いていた。
観光名物の『おやき』や『かけゆまんじゅう』を販売している小さな商店や信濃湯の宿の看板をゆったりと眺めながら、車が交差できるだけの道幅の道路を歩いて行った。

「あの頃とあまり変わっていないわね。お店も増えていないようだし、温泉街というような煌びやかな様子もないし、田舎の湯治湯の面影がそのまま残っているわね。街並みは変わっていないけれど、私は大きく変わったわ。
みんなとここに来た時と、仕事一途に突き進んでみんなと競争していた時と、挫折を感じた時と、私は大きく変わったわ。」

治子の歩いている山間の道の木々ではセミが忙しく鳴いており、小鳥の声が時折聞こえるが、今まで毎日耳にしていた自動車のエンジン音は聞こえてこない。

治子が仕事をしている会社の近くには、街路樹が植わっているがセミが鳴くのを聞いたことは殆ど無かった。生命体によって感じる季節感は無く、ビル風や多くのビルから吐き出される熱風、そして光化学スモッグなどで季節感を感じているのが現実である。

取引先へ打ち合わせに出向く時以外は空調の効いた事務所の中で取引先との連絡を行っているので、季節を感じるのは通勤の時のみであった。

セミの終わる頃(5)

2016-12-26 21:25:18 | 小説
  第二章 逃避

 失意の治子は、自分を癒す旅行を思い立ったが、今まで仕事一筋の生活となっていたので、取引先への海外出張以外にゆったりと心を癒す国内旅行をしたことがなかった。
そんな時に、入社時に訪れた湯治場を思い出し、近くへ行ってみることにした。

 予約などの連絡をしていないので、当時と変化が無いのか、いや旅館そのものが存在しているのかさえ分からないまま列車の座席に身を任せていて、今は焦点の定まらない目で窓の外を眺めている。

 やがて、日が落ちて遠くに見える家に電気が点き始めたころに上田駅に降り立ったち、治子は昔の記憶がよみがえり、懐かしく感じられた。

 駅員に山間に有る湯治場への交通手段を確認し、教えてもらった路線バスで向うことにした。
一時間を超える道のりを行き、路線バスが湯治場の温泉街に近付くにつれて、初々しい時の自分が思い出されて懐かしく感じられた。
 そして、旅館の前のバス停で下りた治子は、旅館には入らず元来た道を、過去を確認するようにゆっくりと歩いて行った。

「ねえ、治子。随分田舎よねえ。」
「そうよね、湯治場はどこも山奥に在るんじゃないの。」
「こんな場所だと、夜になると真っ暗よね。」
「クマとか出ないのかしら。」
「警告の看板が無いから、この辺はまだ大丈夫なんじゃない。」
「鹿なら可愛いけれど熊は怖いわよね。」
「私、結婚する前に死ぬのは嫌だわ。」
「そうよねえ、乙女のままで死にたくないわよね。」
「あらっ、この川魚美味しいわよね。」
「イワナの塩焼きだと思うわ。」
「このお肉はイノシシの肉だって書いてあるわよ。豚より少し硬いわね。」
「同期入社の令子もユリも止めてしまったわ。私だけが頑張っていたのよね。」

 治子は誰に話すのでもなく、自分に同意を求めるように呟いた。
「そうよ、会社が悪いのではなく、私も悪くないのよ。そういう時代なのよ。」

 そして、治子は引き返して旅館に向ったが、相変わらず足取りは重かった。
治子の目の前の旅館は、木の雨戸と茅葺き屋根の歴史を感じさせる造りであった。
治子は記憶と変わらない造りに安堵感を覚えた。

「ここだわ、昔と変わっていない。」
「すみません、先程電話しました桐谷治子です。」
「はいはい、よくいらっしゃいました。永い時間バスに乗っていたので疲れたでしょ。どうぞお上がりくださいな。」

 そして、温泉宿のおかみさんに運転免許証を見せて宿泊させてもらうことにした。
若い女性が一人で予約も無く宿泊するので、おかみさんが心配するのは当たり前である。

セミの終わる頃(4)

2016-12-25 11:28:35 | 小説
 治子は相変わらず分刻みの仕事に追われている中で、見積金額のレートを間違えてFAX送信してしまった。
そして、間違いに気が付いたので訂正のFAXを発信しようとしていた時に先方から取引承諾のオッファーが来てしまった。

「ねぇ白石さん、どうしたら良いのかしら?」
「オッファーが来てしまったので、信用に影響するから取引をしなければいけないよ。だから、方法としてはメーカーに今回だけ特別価格にしてもらって、幾らかでも損失をカバーするしかないよ。だけれど、次回のオーダーの時に損失分をカバーすると言って、メーカーに借りを作るのは止めた方が良いよ。貸し借りを行うと雪ダルマ状態になり、何時しか破綻するからね。」
「分ったわ、メーカーに交渉してみるわ。」

 しかし、永い付き合いのメーカーであるが、価格交渉に応じてくれたのは三百万円が限度であった。損失金額はその十倍近くであり、残額は会社が負担することにして上司が稟議を取締役会に上程してくれたが、上司に大きな汚点を被らせてしまった。
当然上司からの信頼を失墜してしまい、治子は営業の最前線から後方支援の事務処理担当に配置換えとなってしまい、業務時間帯のズレから治子は白石と話しをする機会も減ってしまった。

 そして、今まで他の女子社員とのコミュニケーションの悪かった治子は、今回のミスにより自分の周りには誰も居なくなってしまったとの寂しさがこみ上げてきていた。
しかし、上司の信頼を失った社員などに気づかいする雰囲気も無く、今まで自分の時間を犠牲にしてまで仕事をしてきたことが何だったのだろうかと自問自答を繰り返していった。

 また、社内では白石との不倫も噂され、妻子有る白石も潮時と考えたのか、治子から遠ざかるようになってしまい、治子は気を紛らわすものを全て失ってしまった。

 そして、一人で住んでいるマンションに戻っても話し相手も無く、治子は精神的に落ち込んでいった。