その1からのつづき
8月に中国政府官員と国営メディアで発せられる死傷者数も変化した。8月19日アクス市政府ウェブサイトに掲載された声明によると、7人が襲撃直後かあるいは襲撃中の負傷の結果死亡した。アクス市政府は14人が爆発で負傷したと報道した。メディアの報道によると襲撃で死傷した少なくとも何人かの人はウイグル人であった。多くの警察車両が襲撃で破壊されたという。
地域の住民によると襲撃の的となったと準警察部隊はこの地域のウイグル住民の監視を担当していると信じられていた。地域の情報筋は北京からの政府官員が襲撃のあった同日にアクス市を訪れていたという。情報筋はまた襲撃事件での負傷者はアクス第一人民病院で治療されていたと報告したが、襲撃を貫徹したといわれる男性の周りは厳しい警備が配置されたという。
地域の情報筋の未確認の報告やメディア報道によれば、襲撃事件直後からアクス市と周辺地域に戒厳令が施行されたといわれている、が地方政府はそれらの報道を否定している。武装警察(武警)、特別警察(特警)、装甲車が戒厳令を執行する為に展開したと報告されている。総括的な捜索、そしてウイグル人の大規模な拘束がアワト県を含むアクス地区の行政区域管轄内とクチャ市で実行された。
ラジオフリーアジアの住民インタビューやUAAが入手したアクス市住民の報告では、同市での警察のパトロール者の行動は地域住民に憤激を生じせしめていたが、その理由は極度に強硬に採られた警察の査察方法であった。地域住民は警察の部隊はあご髭のあるウイグル人男性やスカーフを被っていた女性をしばしば執拗に苦しめていたと報告した。地域の住民はラマダンの月に関係する断食他の宗教的実践に関して激しい制約を経験したと報告したが、ラマダン月は8月11日に始まっていた。公式のメディアはホタン地区のアルトゥシュ、ケリヤ両県とカシュガル地区のポスカム県、カシュガル地区のヤルカント県を含む東トルキスタン全土の都市でラマダン中に増加する断食や礼拝に対しての制限を「安定を保護」し、民族統一と「不法宗教活動」からの防衛を強化するという名目の下に示した。公式の指針では特に政府で働くもの、教師と学生はラマダン中にはいかなる形式の宗教的行動も厳しく禁止されるのである。
カシュガルでの2008年の襲撃に関連して執行された処刑
2008年8月、中国国営メディアは2人のウイグル人、タクシー運転手ともう一人は野菜販売業の人物が2008年8月4日にカシュガルでトラック、自家製手榴弾と刀を用いた襲撃を行い、16人の警官を殺害したと報道した。アブドゥラマン・アザトとクルバンジャン・ヘミトは襲撃を行ったとして起訴され2008年12月に「能動殺人と不法銃器、武器、爆発物製造」で死刑を宣告された。
襲撃の後、カシュガル地区の史大剛共産党書記はアザトとヘミトは東トルキスタンイスラム運動(ETIM)のメンバーであったと語った。しかし史大剛の声明以来、二人がETIMに所属しているようないかなる証拠も示されていない。ウイグル人やテロリズムに関しての著名な学者たちは組織的テロ集団としてのETIMの存在について疑問を投げかけつづけている。そしてもしETIMが存在したとしても何年も前に消滅したと主張している。加えて2008年9月28日、ニューヨークタイムスはその襲撃が幾つかの主要な部分において中国の事件の公式見解に疑問を投げかけた、3人の西欧の旅行者の目撃証言で詳細を述べ、またそのうち一人は襲撃の写真を撮っていた。
アザトとヘミトの2人のウイグル人は2009年4月9日、地方のある競技場で4,000人の官員とカシュガル住民の前で差し迫った処刑の宣告が読み上げられた後に知られざる場所において処刑された。地域の情報筋によると、ヘミトは拘束中に激しく殴打されたという。
2人にはまた弁護士との接見も拒否され家族との面会も拘束の始めから与えらていなかったことが報告されている。この処刑は激しい公安取締りと同時に執行され、少なくとも90人のウイグル人が逮捕された、その時中国政府は武装公安部隊を東トルキスタン全土で動員し当局は一軒一軒家宅捜索を行った。