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ニュースサイト宮崎信行の国会傍聴記

元日本経済新聞記者の政治ジャーナリスト宮崎信行が衆参両院と提出予定法案を網羅して書いています。

[訃報]日本のリンカーン、星野行男先生逝く 新生党結党35人衆 追い求めた小選挙区で田中家と対決の悲運

2014年04月11日 04時28分48秒 | 政権交代ある二大政党政治の完成をめざして

[写真]星野行男・衆議院議員=国政情報センター「国会議員要覧平成3年2月版」88ページ。

 新生党結党メンバーで、宮澤解散(1993年6月18日)で宮澤内閣不信任案に賛成し、巨艦・自民党からいかだに乗って海原に飛び出し、日本に政権交代ある二大政党政治のきっかけをつくった、

 星野行男(ほしの・ゆきお)元衆議院議員が、きのう2014年4月10日(木)、亡くなったそうです。昭和7年(1932年)7月2月生まれで、享年82。

 星野さんは、農業に従事していましたが、アメリカ合衆国第16代大統領、エイブラハム・リンカーンの伝記を読んで触発され。上京。28歳にして中央大学法学部法律学科を卒業し、弁護士。その後、小千谷市長に当選しました。

 著書に「やればできる 若者よ夢を持とう」など。

 1990年2月18日の第39回衆院議員総選挙で新潟3区(定数5)の3位で、自民党経世会公認、58歳で初当選。このとき、海部俊樹総裁・小沢一郎幹事長率いる自民党は、土井たか子代表・田辺誠幹事長率いる社会党が「ベルリンの壁崩壊」「おたかさんブーム」で党勢を拡大していることを警戒し、非世襲の人材を大量スカウト。小千谷市長の星野さんに白羽の矢が立った格好です。

 1992年秋、改革フォーラム21(羽田派)結成に参画し、田中角栄先生の信念だった政権交代ある二大政党政治を実現するため、新生党を結党。

 自民党を離党して新生党を結党した衆議院1期生7人は、

 出生順に、

 元市長の増田敏男さん(1929年生まれ) 、
 元農水官僚の松浦昭さん(1929年生まれ)、
 元市長の星野行男さん(1932年生まれ)、
 元町長の金子徳之助さん(1932年生まれ)、
 参議院議員を1期務めた藤井裕久さん(1932年生まれ)、
 会社経営者でJC会頭だった井奥貞雄さん(1939年生まれ)、そして、
 元通産官僚の岡田克也さん(1954年生まれ)の7人。

 これで、松浦先生、星野先生、金子先生の3人が鬼籍に入りました。

 まだ、地盤が定まっていない1期生が自民党を離党し新生党という筏に乗り込むのはとても勇気がいったことでしょう。

 羽田孜代表(1935年生まれ)は星野先生の応援演説で、「私は世襲議員だから、星野先生より当選回数が多く、大臣を3回、大蔵大臣までやっている。星野先生は、国会では私より後輩だが、人生では私の先輩で、それどころか、大変ご苦労なさっている」と語り、中選挙区の弊害打破を訴えました。

 中選挙区最後の選挙となった第40回総選挙では、仲間が中選挙区断然トップ当選で再選する中、星野先生は2位。なんと、第39回総選挙で、地盤がいったんあいていた田中家から、田中角栄先生の長女、田中真紀子さんが初出馬しトップ当選しました。嫡男が被選挙権を得ていなかったことが関係していると考えられます。

 そして、平成6年政治改革関連4法による、改正公職選挙法にもとづく、第41回衆院選。田中角栄先生の正統な後継者である私たち新進党羽田グループの星野行男先生は、自民党公認の田中真紀子さんと小選挙区で激突し、38・1%対48・9%で敗れます。

 星野先生が追い求めた小選挙区は、星野先生に対して、全国300選挙区でもっとも悲劇的な構図を突き付けました。

 「小選挙区ってこんなに厳しいものなのか」ーー私はこのとき比例復活制度の必要性を痛感しました。

 その後、星野先生は、真紀子さんの議員辞職に伴う補欠選挙で当選し、自民党に入党し71歳で法務副大臣を務めました。

 心よりご冥福をお祈りいたします。

 (このエントリーの参考文献 衆議院・参議院編「議会制度百年史」衆議院議員名鑑 570ページ) 


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