【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

【訃報】渡部恒三先生が88歳で昨日亡くなったとの報道

2020年08月24日 15時36分00秒 | 素晴らしき新生党保存会
 渡部恒三先生が亡くなったと、報じられました。88歳。もうショックでショックでショックでショックで言葉になりません。「8・28」が羽田孜さんのご命日で、恒三先生はきのう亡くなったそうで、「8・23」ということになります。

 私の場合は、誰が何といっても、新生党学生部(新生党学生塾)の出身ですから、羽田孜党首、小沢一郎代表幹事、渡辺恒三代表幹事代行の3トップのうちお二人亡くなって、もう時代が流れたというところです。

 渡部恒三さんは1969年初当選のいわゆる獅子(昭和44年初当選)で連続当選14期。福島県会津の選挙区なので、西日本出身者が多い東京政治部新聞記者からはしゃべり方を馬鹿にされました。

 同期の羽田孜さん、小沢一郎さんが明確に田中角栄系列(木曜クラブ)なのに、渡部恒三さんは追加公認組なので佐藤栄作・自民党幹事長(周山会)系列で、経世会合併後も「中間派」とよばれました。改革フォーラム21(羽田・小沢派)と新生党の結成には、田中系以外に、中間派の恒三さんが政治改革の小舟に乗り込んだのが決定的となりました。

 当時、学生塾がある閣僚経験者(現閣僚の岳父)をお招きしての勉強会で7名しか出席者がいないという失態をしでかした前後に、恒三先生は勉強会に後部から入るなり「おーいっぱいいるなあ」と言いながら入ってきてくださり、そのときの感動は忘れられません。

 渡部恒三衆議院副議長の時代に、新進党が解党。「私が帰る家をつくってくれ」とのもと、副議長室を根城に、中堅の勉強会を開催。私が番記者をしていた伊藤英成・新党友愛(旧民社党)幹事長もメンバーでした。副議長室で長時間話し合いました。その勉強会の公明党系メンバーは外れましたが、1998年4月に民主党結党。赤坂プリンスホテルの結党大会では、来賓として登壇。「私の帰る家をつくってくれてありがとう」と壇上の菅直人代表・羽田孜幹事長に感謝しながら、来賓席の小沢一郎・自由党党首に別れを告げました。

 その後、長時間拘束される衆議院予算委員を何年もつとめ、政局になりかけたときには自ら質問に立ち、先輩を前に自民党議員から笑いが起きたら間隙をつきました。

 民主党政権下では、小沢一郎グループの若手が、恒三先生を暗に小馬鹿にすることで小沢グループとしてのアイデンティティを示そうとする動きがあり、私は絶対に一生許しません。

 このころ、新生党時代の先輩でもある、岡本征弘・秘書(元衆議院副議長秘書)に国会内で挨拶をすると、数秒後に恒三先生が現れ「オー元気か!」と右手を挙げて、私に声をかけてくださるので、300名以上の民主党衆議院議員も私のことを、すごい存在だと認識したようです。

 厚生大臣としては、「トルコ風呂」として中には「トルコ大使館」なる看板までかけた特殊浴場を、大臣主導で学者も入れて議論。「ソープランド」に替え、トルコの政治家から「こーぞーは、トルコに来ればいつでも国会議員になれるよ」と言われましたが、14回連続当選なので、その必要はありませんでした。

 通商産業大臣としては、四極通商会談で、カーラ・ヒルズ米通商代表を、会津に招待。「こーぞー、私はこのような郷土を持つあなたがうらやましい」と語ったとされ、「鬼の目にも涙」との世論になりました。後日談としては、涙を流したのはヒルズさんではなく、郷土の先輩の雄姿に沿道の子供が涙したという説もあり、ぜひ、そのお一人に私もお目にかかりたいものです。私がそこにいたら、涙してたね。

 自治大臣・国家公安委員長としては、1990年2月、三重県に向かい、苦戦していた岡田克也候補36歳に「みなさん、陳情は岡田君に代わってこの私が引き受けます」と演説。泣く子も黙る経世会絶頂時代の自治大臣が全部陳情を引き受けるという岡田さんに興味を持つ人が増え、5人区で4位とギリギリでしたが、非世襲の30歳代元官僚が経世会で初当選。岡田さんの名前が1期からとどろくことになりました。

 私がお目にかかったのは、2014年2月がラストです。早稲田大学の先輩でもありますので、いつまでもお元気でいていただきたかったです。とりあえず、初公開では以上です。

 以上です。


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