自分と同世代で、唯一現役で頑張っている女性アスリート、岡崎朋美さんのネタです。このブログの普段のネタとはまったく違う分野の方なので、補足説明すると、冬期五輪のスピードスケートの選手です。長野五輪で銅メダルを獲得して、朋美スマイルで有名になった方です。
岡崎は、当時の女子スピードスケート界のカリスマだった橋本聖子選手のいた富士急に入社しました。高校時代は無名選手だった岡崎はなかなか練習についていけず、出てくるまでには時間がかかりました。しかし、それでも橋本聖子と一緒に練習することによる効果は大きく、岡崎は橋本聖子と一緒に、1994年リレハンメル冬期五輪の代表になっています。
ただ、まだこの大会の時点では岡崎に注目する人はほとんどいませんでした。岡崎が有名になり始めたのは、長野五輪を控えたW杯で、ライバル島崎と二人で上位に入ることができたからです。吉井妙子さんの記事によれば、島崎は繊細なレーシングマシンで、岡崎はパワフルなオフロード車と、まったくタイプの違う走り方の評価でした。
二人とも全盛期で迎えた長野五輪は対照的な結果に終わりました。岡崎が銅メダルを獲得して、一躍有名になったのとは違って、島崎はメダルを逃し、不完全燃焼のまま現役を引退しました。この結果で、岡崎のところには芸能界転身や、スポーツキャスターなど華やかな話が次々舞い込みました。
しかし、本人が、「自分は田舎者だから華やかな話には興味はない」と断り、現役続行となりました。ただ、次のソルトレーク五輪は岡崎にとっては苦難の道になりました。椎間板ヘルニアで、戦線を離脱した岡崎は、腰を手術した選手が現役に復帰した前例がないことを知ります。
しかし、それなら自分が第一号になると決意し、手術を受けて驚異的な回復でソルトレーク五輪に間に合わせました。岡崎のすごいところは、不十分な状態で迎えた五輪にもかかわらず、6位入賞ときっちり結果を残したことです。この時点で30歳だった岡崎は、今度は引退と誰もが思いましたが、まだやり残したことがあると、4年後のトリノ五輪にも出場して4位とまたも結果を残しました。
今季は不振だった岡崎ですが、来季の現役続行は明言しています。その不屈の魂で、バンクーバー五輪に出てくれることを、ファンの一人として期待しています。
岡崎は、当時の女子スピードスケート界のカリスマだった橋本聖子選手のいた富士急に入社しました。高校時代は無名選手だった岡崎はなかなか練習についていけず、出てくるまでには時間がかかりました。しかし、それでも橋本聖子と一緒に練習することによる効果は大きく、岡崎は橋本聖子と一緒に、1994年リレハンメル冬期五輪の代表になっています。
ただ、まだこの大会の時点では岡崎に注目する人はほとんどいませんでした。岡崎が有名になり始めたのは、長野五輪を控えたW杯で、ライバル島崎と二人で上位に入ることができたからです。吉井妙子さんの記事によれば、島崎は繊細なレーシングマシンで、岡崎はパワフルなオフロード車と、まったくタイプの違う走り方の評価でした。
二人とも全盛期で迎えた長野五輪は対照的な結果に終わりました。岡崎が銅メダルを獲得して、一躍有名になったのとは違って、島崎はメダルを逃し、不完全燃焼のまま現役を引退しました。この結果で、岡崎のところには芸能界転身や、スポーツキャスターなど華やかな話が次々舞い込みました。
しかし、本人が、「自分は田舎者だから華やかな話には興味はない」と断り、現役続行となりました。ただ、次のソルトレーク五輪は岡崎にとっては苦難の道になりました。椎間板ヘルニアで、戦線を離脱した岡崎は、腰を手術した選手が現役に復帰した前例がないことを知ります。
しかし、それなら自分が第一号になると決意し、手術を受けて驚異的な回復でソルトレーク五輪に間に合わせました。岡崎のすごいところは、不十分な状態で迎えた五輪にもかかわらず、6位入賞ときっちり結果を残したことです。この時点で30歳だった岡崎は、今度は引退と誰もが思いましたが、まだやり残したことがあると、4年後のトリノ五輪にも出場して4位とまたも結果を残しました。
今季は不振だった岡崎ですが、来季の現役続行は明言しています。その不屈の魂で、バンクーバー五輪に出てくれることを、ファンの一人として期待しています。
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