流れゆく雲に

風に季節を聞きながら、日々の出来事をつづります。

麗しのジルベール(風と木の詩) 作者に逢いに行く その3(最終回)

2016-05-21 15:37:59 | 日記

講演会が終わり、最後に質問コーナーがあった。

気の利いた質問が思いつかなかった。唯一聞きたかったのは、「惠子」という漢字表記が

昔は「恵子」だったのが変わったことだった。

しかし、フリーの質問とはいえ、講演内容にそぐわないので手を挙げなかった。

時間もすでにオーバーしている。

最後に司会者の挨拶の時に「著書を購入した人に竹宮先生がサインします」と言われた。

私は、もしやと思い、本を持参して来ていた。ここで購入の本でなければだめなのか、

司会者に聞くために壇上に上がった。

特に否定はされなかった。人が殺到し始めたので「こちらにお並び下さい」とあわてていた。

質問のために前方に来ていたので列の前の方に並ぶことが出来た。

順番が来て、サインを書いて頂いた。

そして、「握手して下さい」と私は言った。

私の前の学生がサインだけで素っ気なく行きすぎるのを残念に思っていたので。

にっこりして竹宮恵子先生は握手してくれた。

最高のひとときだった。

 

竹宮惠子先生、ありがとうございました。

 

 

会場 友愛館Agoraを後にした。

 

 

「空がすき」が好きだった。

あっちこっち破れて傷んでいる。

竹宮先生の本も他の本ももう一度読み返さないだろうと思って処分した本がある。

しかし、「空がすき」「ファラオの墓」「風と木の詩」は残していた。

 

 

こんな本も書棚にある。

 

竹宮惠子先生が萩尾望都先生に嫉妬(こういう表現が合っているのかわからないのだが)していたとの告白には驚いた。苦しくなって、大泉サロンを出て行ったのだ。(著書より推察)

当時の大泉サロンには様々な作家が出入りしていた。

佐藤史生さん、坂田靖子さん、他多数。(本を読んで下さいね)

 

萩尾望都さんの「ポーの一族」も手放さずに書棚にある。

 

 

京都精華大学が京都のどのあたりにあるのかも知らず、国際会館って聞いたことがあるなぁ、だった。

京都の地下鉄に乗り、スクールバスに乗ってはるばる来たかいがあった。

 

 

頂いてきたチラシや広報誌。

 

 

大学構内は新緑に包まれていた。

自由の空気に触れた気がした。

月がすべての出来事を見ていた。

時間が流れた。

 

もしかしたら、ジルベールとセルジュが二人で昼寝していそうな黄緑の木を見つけた。

学生たちは二人を見ても普通にあるいている。ふたりはそこに溶け込んでいるのだ。

 


麗しのジルベール(風と木の詩)作者に逢いに行く その2

2016-05-21 13:04:09 | 日記

編集者がYさんからMさんに変わった。Mさんは以前は少年コミック担当で、少女コミックは初めてだった。

読者アンケートで1位を取れば、「風と木の詩」を連載会議にかけると約束してくれた。

どんな方法があるのか。

貴種流離譚という方法がある。

高貴な身分の子供が身分の低い者や試練に揉まれ、最後は高貴な身分を取り戻す。

そんな話はよく聞くが物語文学の原型の一つとは、知らなかった。

舞台は、エジプト。

「ファラオの墓」が段々と構築されて行く。

スクリーンに当時の小学館の表紙が映し出された。

王子は肌を露出している。きれいな布を巻いている。

 

我が家にある「ファラオの墓」

 

当時の私の興味は宝塚歌劇(第一次ブーム)だった。

「ベルサイユのばら」は、ファンからの意見を取り入れたと聞いていたので、

宝塚歌劇団へ私は、「ファラオの墓」のコミックを郵送したのを思い出す。

 

竹宮氏は、この「ファラオの墓」で女の子が書けた、と言っている。

どういうことか、当時の少女の絵は、タブーがいっぱいあった。

例えば、二の腕を出さない、太もももしかりだった。

タブーを守って描いた。

1位をとるために。

 

最終的に最高位は2位に終わった。

しかし、読者の指示は得ていた。初のサイン会には、3000人がデパートの屋上に集まった。

 

こうして、「風と木の詩」の連載が始まった。

 

 

 

エントロピーの状態を作る。

なんか、物理の講義みたいだ。

わかりやすい例えで言えば、「宇宙(テラ)へ」では

ジェミーだけではだめで、そこへソルジャーブルーを入れる。

熱を起こすものを入れると反応が起きる。

 

 

本当の漫画家になる。

スクリーンに文字が映し出される。

「風と木の詩」連載開始。

1976年最初の50ページは、1971年に思いついたストーリーを8時間かけて増山氏に

話した内容と変わらない。

 

竹宮氏はこんな話をしてくれた。

弱った渡り鳥を助けたことがある。でも、その鳥は拒食症のような状態で

与えたエサを食べられずに死んでしまった。

その時、思った。鳥は飛べないと死んでしまう。

 

私は、中島みゆきさんの「最後の女神」や「Inbia Goose」「この空を飛べたら」を思い浮かべていた。

 

鳥は飛翔してこそ美しい。

飛翔する美しさがあったから、つまり指示する人が多かったから飛び立つことができた。

アンケートで1位は取れなくとも「風と木の詩」を連載出来る力はついた。物語をコントロールできる。

 

 

講演会タイトル

創作で革命を起こすには、について

 

竹宮氏はこう言っている。

日常の中にある。その種を拾って育てるのは人である。

 

少女マンガで革命を起こす。

「革命」とは、わくわくする。特別な意味を持つ。

23.24歳の頃強く意識した。(「ファラオの墓」の頃)

 

その3へ続く。

 


麗しのジルベール(風と木の詩) 作者に逢いに行く その1

2016-05-20 17:36:29 | 日記

昨日(2016年5月19日)、京都精華大学で行われた竹宮惠子氏の講演会に参加した。

竹宮惠子氏の自伝ともいうべき著書「少年の名はジルベール」を購入していた。

しかし、話題になり早いうちに購入していたにもかかわらず、読んではいなかった。

5月19日には読み終えなくてはとあわてて読み始めた。

知らないことが多く、興味を惹くことばかりだった。もう少し若ければ徹夜して一気に読めただろう。

講演会が待ち遠しくなった。

スクールバスというものに初めて乗った。

行きは女性の運転手だった。

車内は空いていて、学生の話し声がとてもなつかしくうらやましく感じられた。

 

 

バスはどこへ向かうのか(京都精華大学だというのはわかっている)。

わくわくしてくる。山道のカーブはたいへんだ。

 

やっとバスは、目的地京都精華大学に着いた。

立て看板がある。会場はここなのだろうか?

あまり参加の人を見かけない、不安になって、大学の方と思われる人に聞いてみる。

会場はまだ向こうで、すでに参加者が並んでいるとのことだった。

しばらく歩くと見えてきた。ゆうに100人は並んでいるのだろうか。時間は15時40分。

開始は16時20分だ。多分入れると思う。早めに来てよかった。

友愛館多目的ホールAgoraは収容人数500人。

 

会場は満席だった。

司会(大学の方)の方が竹宮恵子氏に質問して進めて行く方式。

私が驚いたことは、「風と木の詩」は1971年にはすでに考案されていたということ。

完成した作品ではないにしろ、設定や登場人物はできていた。

ただタイトルはあとになってからだと著書に記されている。

この作品が世に出るまでの苦労を私は知らなかった。

もちろん少年愛がテーマでセンセーショナルだったから、こんな絵が掲載されていいのかとは

思っていた。

長い間、温められて構築されて、研ぎ澄まされて、そして、世に出た、「風と木の詩」。

ミレー作の「ダフニスとクロエ」を見た時、彼女の中にジルベールが現れた(と私は解釈した)。

思いつき、インスピレーション、降臨(昨今、もてはやされる言葉だが)。

「ダフニスとクロエ」が見たくなった。ネット検索すると多くの人が描いている、音楽もある。

 

こんな話をされていた。

この絵を見た時、否定される人物もそこにいるのならばそれは意味があるはずだ。

 

いつか機会があれば見に出かけよう。そこにジルベールが見えるかもしれないと思うから。

私のジルベールが。

 

大泉サロンの話はおもしろかった。

竹宮惠子氏と萩尾望都氏と増山法恵氏の三人の同居生活。

中央のスクリーンにイラストが映し出された。

間取りを意外とよく覚えていました。と話されていた。

 

ヨーロッパ旅行の話。

72年、竹宮惠子、萩尾望都、増山法恵、山岸涼子の4名はヨーロッパへと旅に出る。

竹宮氏は鉄道に興味があり(鉄子さん)ヨーロッパの鉄道の時刻表を取り寄せて

(取り寄せに三ヶ月かかった)旅の日程を組んでいた。

今は日本語もでているが当時は英語だった。

 

旅行からしばらくして竹宮氏は、大泉サロンを出る。

 

「風と木の詩」を世に出すために描きはじめたのは「ファラオの墓」だった。

その2へ続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私の観たNINAGAWA作品

2016-05-16 13:24:16 | 舞台

テレビで蜷川幸雄さんの告別式の様子が伝えられている。

12日に演出家蜷川幸雄さんが亡くなった。15日が通夜、今日16日が告別式だ。

 

私は2回シアターBRAVA!で彼の演出した舞台を観ている。

2005年7月近代能楽集「卒塔婆小町」「弱法師」

藤原竜也さんのファンである私はいつか、彼の舞台を観たいと思っていた。

やっとチケットを手に入れて一人でシアターBRAVA!へ出かけたことを覚えている。

2005年に私たちは立川市から川西市に戻ってきた(家人の転勤に伴い立川に暮らしていた)。

 今思えば、東京なら、いろいろな舞台が観えたはずなのだが、

「ハムレット」も「ロミオとジュリエット」も観ていない。悔やまれる。

 

初めて観る蜷川演出の藤原竜也の舞台だった。

 圧倒的な迫力で、鬼気迫る演技をする役者に大変感動したのを思い出す。

 

2005年11月3日、再び私はシアターBRAVA!にいた。

唐沢寿明さんが出演しているという理由で、あまり聞きなれないタイトルのこの舞台を観るために。

藤原竜也さんも出ているし、西岡徳馬さんや白石加代子さん、高橋恵子さん、他多数、そうそうたるメンバーだ。

「天保十二年のシェイクスピア」

各場面にシェイクスピアの作品を織り込んだ井上ひさしの戯曲。

音楽は宇崎竜三。

しっちゃかめっちゃかで、藤原竜也の演技がはじけ飛んでいたのを覚えている。

登場人物が多くて一回観ただけじゃわからない、と思った。

ここにもシェークスピア、これもあれも、どこか忘れていないか。

 

あれもこれも観たかった、どうしていかなかったんだろう。

蜷川幸雄はもういないけれど、彼が残したものはたくさんある。

そうですよね。

ありがとう蜷川さん。

 

明日も舞台は誰かを待っているから。

きっと待っているから。

私は客席に座るから。