安居神社に行った序でに立寄る“酒封じの神”?にお詣りした。謂れが面白い。
一心寺の境内に入ると、左手辺りに立派な
本多忠朝 の墓がある一心寺は「酒封じの神」として信仰を集め、禁酒を誓う人々が詣で、墓碑周辺 のシャモジは参拝者による断酒祈願となっています。
一心寺の正門を潜り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/50/d3465ac915438255e5db13b3088a39ff.jpg)
参道の左手の一画にある
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謂れ
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忠朝の巨大な五輪塔の周りには戦死した家臣の墓が並ぶ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/f5/295f53e751a45046dce509db2dedd431.jpg)
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小生、禁酒の祈りはやらなかったが(笑) 深酒は慎む様に心掛けよう❣️
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後にした
一心寺は本当に参拝者が多いのにびっくり
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やはり、仏教の宗派を問わず納骨を受けて(戦前から)(一部の宗派は除く)いるからだろうなぁ
昨今の核家族化や墓地事情から益々ニーズは高まると思われる
10年サイクルでお骨佛を開眼祀られるとのことだ
ほんまに、大阪は何処を歩いても歴史の巣窟にぶち当たるわ
2017.12.21. 安居神社の序でに立ち寄る。
✳️余談
★8代目 市川団十郎の墓も
八代目 市川 團十郎(はちだいめ いちかわ だんじゅうろう、文政6年10月5日(1823年11月7日)[1] - 嘉永7年8月6日(1854年9月27日)[1])は天保年間から幕末にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/9c/2747b7f0113c6fd7ad8789c643f6b79d.jpg)
✴️余談
本多忠朝について
天正10年(1582年)、徳川家康の重臣本多忠勝の次男として生まれる。父に劣らぬ勇将で、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに父と共に従軍して活躍した。戦後、その戦功により、父が伊勢桑名藩に移封されると、父の旧領・上総大多喜5万石を与えられた。
慶長14年(1609年)、ドン・ロドリゴ一行のスペイン船サン・フランシスコ号が航海中に難破し50人余りが溺死し、300人余りが 上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜に上陸した際はこれを保護し歓待し、ロドリゴは「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中で、一行は約40日間滞在したが、その間、村の人々が献身的に対応してくれたと記している。忠朝も300人余りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった。
新田開発を積極的に行い、慶長14年(1609年)に国吉原、慶長16年(1611年)に万喜原の開発を奨励している。
慶長15年(1610年)、父の忠勝は亡くなる前に、軍費として1万5000両を忠朝に譲ろうと遺書を残したが、忠朝は兄の忠政は所領も広く所用もまた多いだろうといって、この金を受け取らなかった。忠政は亡父の遺命にそむくべからずといって互いに金を受け取ろうとしなかった。結局、兄弟で折半することになった(『徳川実記』)。
慶長19年(1614年)、安房国の里見忠義改易の際には、佐貫城主・内藤政長とともに館山城の破却と近辺の守備を行う。
●➡︎慶長19年(1614年)、大坂冬の陣でも活躍したが、酒を飲んでいたために不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退した。それを家康に咎められた忠朝は、翌20年(1615年)の大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと天王寺・岡山の戦いで先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入し、奮戦したが戦死した。死の間際、忠朝は「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれ、死後「酒封じの神」として崇められている。忠朝の墓は一心寺(大阪市天王寺区逢坂)の境内にある[5]。後に忠朝の骨は分骨されて、良信寺(良玄寺)に葬られた。
家康はその死を悼み、忠朝の遺児・政勝を大和郡山藩主として封じた
★酒を飲んでの不覚とは・・・・一心寺に伝わる話として
忠朝が家康からひどく怒られたのは、決戦前日5月6日の戦いに遅れたからで、遅れの原因は深酒による二日酔い。
大阪夏の陣 最後の決戦 5月7日
汚名を返上しようと見事に戦死を遂げた忠朝が、死に望んで、後世の人が自分の様に酒で身を誤る事のないよう救いたいと願ったという。これにより、忠朝の墓石を削り酒に入れて飲むと酒断ができるとの信仰が生じた。
現在は、墓石を削るのは禁止だが、酒封じを願って忠朝の墓所に参拝する人は絶えない。
と
本に記されていた
一心寺の境内に入ると、左手辺りに立派な
本多忠朝 の墓がある一心寺は「酒封じの神」として信仰を集め、禁酒を誓う人々が詣で、墓碑周辺 のシャモジは参拝者による断酒祈願となっています。
一心寺の正門を潜り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/50/d3465ac915438255e5db13b3088a39ff.jpg)
参道の左手の一画にある
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謂れ
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忠朝の巨大な五輪塔の周りには戦死した家臣の墓が並ぶ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/f5/295f53e751a45046dce509db2dedd431.jpg)
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小生、禁酒の祈りはやらなかったが(笑) 深酒は慎む様に心掛けよう❣️
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/6b/54f5e6f39b75e10e1a0ab773c3a0c785.jpg)
後にした
一心寺は本当に参拝者が多いのにびっくり
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やはり、仏教の宗派を問わず納骨を受けて(戦前から)(一部の宗派は除く)いるからだろうなぁ
昨今の核家族化や墓地事情から益々ニーズは高まると思われる
10年サイクルでお骨佛を開眼祀られるとのことだ
ほんまに、大阪は何処を歩いても歴史の巣窟にぶち当たるわ
2017.12.21. 安居神社の序でに立ち寄る。
✳️余談
★8代目 市川団十郎の墓も
八代目 市川 團十郎(はちだいめ いちかわ だんじゅうろう、文政6年10月5日(1823年11月7日)[1] - 嘉永7年8月6日(1854年9月27日)[1])は天保年間から幕末にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/9c/2747b7f0113c6fd7ad8789c643f6b79d.jpg)
✴️余談
本多忠朝について
天正10年(1582年)、徳川家康の重臣本多忠勝の次男として生まれる。父に劣らぬ勇将で、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに父と共に従軍して活躍した。戦後、その戦功により、父が伊勢桑名藩に移封されると、父の旧領・上総大多喜5万石を与えられた。
慶長14年(1609年)、ドン・ロドリゴ一行のスペイン船サン・フランシスコ号が航海中に難破し50人余りが溺死し、300人余りが 上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜に上陸した際はこれを保護し歓待し、ロドリゴは「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中で、一行は約40日間滞在したが、その間、村の人々が献身的に対応してくれたと記している。忠朝も300人余りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった。
新田開発を積極的に行い、慶長14年(1609年)に国吉原、慶長16年(1611年)に万喜原の開発を奨励している。
慶長15年(1610年)、父の忠勝は亡くなる前に、軍費として1万5000両を忠朝に譲ろうと遺書を残したが、忠朝は兄の忠政は所領も広く所用もまた多いだろうといって、この金を受け取らなかった。忠政は亡父の遺命にそむくべからずといって互いに金を受け取ろうとしなかった。結局、兄弟で折半することになった(『徳川実記』)。
慶長19年(1614年)、安房国の里見忠義改易の際には、佐貫城主・内藤政長とともに館山城の破却と近辺の守備を行う。
●➡︎慶長19年(1614年)、大坂冬の陣でも活躍したが、酒を飲んでいたために不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退した。それを家康に咎められた忠朝は、翌20年(1615年)の大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと天王寺・岡山の戦いで先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入し、奮戦したが戦死した。死の間際、忠朝は「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれ、死後「酒封じの神」として崇められている。忠朝の墓は一心寺(大阪市天王寺区逢坂)の境内にある[5]。後に忠朝の骨は分骨されて、良信寺(良玄寺)に葬られた。
家康はその死を悼み、忠朝の遺児・政勝を大和郡山藩主として封じた
★酒を飲んでの不覚とは・・・・一心寺に伝わる話として
忠朝が家康からひどく怒られたのは、決戦前日5月6日の戦いに遅れたからで、遅れの原因は深酒による二日酔い。
大阪夏の陣 最後の決戦 5月7日
汚名を返上しようと見事に戦死を遂げた忠朝が、死に望んで、後世の人が自分の様に酒で身を誤る事のないよう救いたいと願ったという。これにより、忠朝の墓石を削り酒に入れて飲むと酒断ができるとの信仰が生じた。
現在は、墓石を削るのは禁止だが、酒封じを願って忠朝の墓所に参拝する人は絶えない。
と
本に記されていた
酒封じ。。
飲み過ぎ深酒、体の事も考えて控えたいですね。