福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

愛染坂から生國魂神社えお通り抜け真言坂へ向かう。 No.2

2018-01-27 11:00:00 | ★気儘にぶらり 再発見😲 面白いなぁ?
上町台地に寺院が密集している。
当然、坂道は多い。
天王寺七坂界隈の概略地図だ。これが判り易い。


④愛染坂➡︎③口縄坂➡︎②源聖寺坂➡︎①真言坂を歩いて見る。

④愛染坂


自転車も押して上がる

真ん中辺りから




上がりきると
大江神社


愛染さん


重要文化財の多宝塔


東側道路から

北へ歩くと

北へ進み左折、松屋町筋方面に下りる
⬇︎③口縄坂






結構な勾配だ


猫が


⬇︎②源聖寺坂
松屋町筋を北に進む

北へ 源聖寺坂だ





一番長い坂だった

メチャ古そうな石標?文化・・・素人には判らない




上がり切った処に

⬇︎①真言坂
生國魂(いくたま)神社方面へ


通り抜け北門 下りれば真言坂。千日前線に出る


下から

北門へ

下寺町交差点角 生國魂神社へ

生玉北門坂

北門へ


ザッと
約 3時間弱の駆け足散歩
回るルートしては
①からスタートが良いかもしれない。そうすれば、最後は一心寺、四天王寺界隈や茶臼山界隈から通天閣や近鉄阿倍野周辺など見所は多い。
シーズンは、桜か紅葉の頃かなぁ〜夏はチョット無理ですね!

✳️生國魂神社の境内は


米沢彦八➡︎上方落語発祥の地 ➡︎江戸時代の落語家の名跡。現在、空き名跡。上方落語の始祖。

分社

井原西鶴像➡︎寛文13年32歳の西鶴は生國魂神社で、俳人200名を集めて大規模な万句興行行うなど所縁。
生誕350年記念事業

織田作之助像➡︎この近くで生まれたとか、夫婦善哉の作家。33歳でこの世をさる。生誕100年記念事業で銅像を建てる。




✳️生國魂神社について
大阪市中心部、難波宮跡や大坂城(大阪城)から南西方の生玉町に鎮座する。かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。
この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代表的な古社の1つである。
古くからの社殿・神宝は幾多の火災・戦災によって失われたが、現本殿には「生國魂造(いくたまづくり)」と称する桃山時代の独特の建築様式が継承されている。また、7月11日・12日の夏祭など古くからの祭りが現在まで続けられている。


●上町台地について
上町台地(うえまちだいち)とは、大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地である。
北部は大阪市中央区の大阪城付近・天満橋の辺りで、そこから緩やかに小山を形成し、天王寺区上本町の大阪上本町駅付近で台地の頂に達し、そこから下りとなって阿倍野区周辺を経て、南部の住吉区・住吉大社付近に至り、その辺りでほぼ平地になり清水丘を以て終わり、長さ約12kmに及ぶ。大阪(大坂)の歴史の発祥地であり、要所である。

上町台地は縄文期には東西を河内湾と瀬戸内海に挟まれていた半島状の砂嘴だったと考えられており、弥生期から現在に至る期間を経て台地東部(東成地区の語源と言われる)は淀川・大和川水系から運ばれる大量の土砂が堆積し、河内湾が河内湖、湿地帯を経て沖積平野となり、台地西部(西成地区の語源と言われる)も同じく河川の働きにより大阪市の中枢部を含む平野を形成するにいたった。台地東部への下りが比較的なだらかなのに対し、台地西部への下りが急峻であるのは台地東部が淀川・大和川水系の上流に位置し、土砂の堆積量が豊富なためで、台地西部は標高が低く大阪湾平均水面より低いゼロメートル地帯が広く分布している。なお、台地の標高は最も高い大阪城天守閣跡で38メートルであり、北部はストンと淀川水系の大川に落ち込み、南部へはなだらかに下り北の大阪城大手町付近で24メートル、中央部の天王寺交差点付近で16メートル、帝塚山付近で14メートルの標高を保つが、南部の万代池南方から急速に標高を失い住吉大社付近で6メートルとなり細井川を越えた台地南端の住吉区清水丘では標高は2 - 3メートルとなっている。
なお、台地の範囲を四天王寺付近までとする見解もあるが、台地表層の開発利用状況から見ての明治期以前に拓けていたか否かを分岐とする考え方から来ているものと考えられる。そもそも、江戸時代までは河内(かわち=大阪東部の旧国名)を形成していた大和川が柏原から北へ蛇行し現在の東大阪市から大東市あたりに大きな池を作り、現在の天満橋の辺りで淀川(大川)と接合して海へ流れていたことから、上町台地の北の端は大阪市中央区天満橋あたりであり、南の端は住吉区の苅田付近までにわたる。行政区としては、中央区の東部分、天王寺区、阿倍野区、住吉区北端と南部の一部にわたっている。
上町台地上には「○○山」や「○○丘」という地名が多く、北から天王寺区の「真田山」、「北山」、「桃山」、「夕陽丘」、「茶臼山」、阿倍野区の「晴明丘」、「丸山」、住吉区の「帝塚山」、「清水丘」と続く。