KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

個性のカケラもない文体で

2007-08-15 16:11:09 | わたし自身のこと
博士論文の修正版を印刷した。
もう修正版を作成するのも2回目だが、それほどイヤにはならない。


物語や詩といった
文学的なことばからは意識的に距離を置いていたせいで、

個性のカケラもないような論文スタイルの文章でありながら、
その人らしさが滲みでてくるような文章が書きたい、

…と、ずっと願いながら文章を書いている。

論文を書き直すたびに、少しずつ、
わたしらしさ…というか、
わたしでしか書けない言葉を紡ぎだすことができるような気がしている。
個性のカケラもないような論文スタイルの文章の中に、
少しずつわたし自身の居場所ができていく。

ああ。これがわたし自身の言葉だ、と思えるような言葉。
そんな言葉を求めている。
わたしはそれを見つけるためにずっとずっと文章を書きつづける。
個性のカケラもないような文体で。

卑弥呼の恋

2007-08-15 15:54:26 | 研究
以前、ある方が吉野ヶ里遺跡に行ったときの話をしていたときのことを思い出した。

その方は、結局、その遺跡それ自体のことはほとんど話さなかったのだが、
ひととおりそのときのことを話し終えたあとにこんなことを言っていたように思う。
「あの時代の人たちにとっての恋愛って、どんなのだったんだろう。
それってきっと今の恋愛と全然違うモノなんだろうな」…と。
当時、
そんなことをまったく考えたこともなかったわたしは、この一言に衝撃を受けたのを覚えている。


そのとおりだ。
考えてみれば当然のことだった。

だって「恋愛」という概念自体がないのだから。
プラトニック・ラブは近代以降、西洋の影響で始まったものだし、
そもそも「恋愛」「結婚」をめぐる制度がまったく異なる状況の中で、
同じような感情や感情をもって、
それら一連の男女の(あるいは同性同士の)関係の深まりが行われるはずはないのだ。


人間という存在は、
もはや、
生物学的にありのままの自然として生きることができないのかもしれない
…と思う。


人を好きにならないでいることが、果たしてわたしにできるだろうか。
単なる生殖目的で異性を見ることができるだろうか。
キスを単なる肉体の接触と思うことができるだろうか。

「好きになる」ということ。
誰かを愛するということ。
それそのものが、社会的な物語に埋め込まれている。
「好きになる」ことはまったく自然な感情じゃない。
卑弥呼の恋が、現代を生きるわたしたちの恋と異なるように、
(そもそも卑弥呼やその時代を生きた人々に「恋」「愛」に類似した概念があるのかどうかすら謎だ)
わたしたちがふだん感じる感情そのものが自然とはかけ離れているのだと思う。


そういえば、
「連環の計」で有名な美女・貂蝉はいつから自分の死に際して「ひとすじの涙」を流すようになったのだろう。

「成長」

2007-08-14 19:43:04 | 趣味
人が懸命に生きようとする姿や、
真っ直ぐに前に向かいつづけて「成長」する姿は、
とても美しい。


「良い方向」を定める価値観は人それぞれだろう。
わたしのいう「成長」とは、そういう価値感とはまったく別のものだ。
「こういう方向に向かってほしい」という誰かの願いは、
あってもなくてもいい。

ただ、<いま・ここ>の場で真剣に何かと向き合って、
その結果として生じる、なんらかの変容。
それは、どのようなものであれ「成長」であるとわたしは思う。


たくさんある演劇部の写真を並べてみていると、
なんともすがすがしい美しさがあるなぁ、とあらためて思う。

そりゃぁ、赤フンドシはいてたり、
女の子オカズにしてご飯食べてたり、
小学生以下のイタズラ(?)して喜んでたりする写真も多い。


だけど、やっぱり美しいと思う。


写真を撮る彼は、
やっぱり、わたしに見えない何かがハッキリと見えていて、
それをきちんと写真の中におさめることができるんじゃないか、
とあらためて思う。

彼はあいかわらず、美しい世界に生きている。
その美しい世界の中に、演劇部の高校生たちがいる。

それって、本当にステキなことだ。

それでもやっぱり国語科は好きになれない

2007-08-10 22:18:11 | わたし自身のこと
以前の記事にも書いたが、
1年以上先の小学校教諭認定試験に向けて、小学校全科の勉強をしている。

本日は「国語」。
自分自身の中にある矛盾と、
純粋なる研究的好奇心に沿いきれないかもしれないという恐怖と。
…そんないろいろなものを抱えて大学院に入学して五年。
国語教育学を研究する自分を少しずつ認められるようにはなったけれど

それでもやっぱり国語科は好きになれない。

小学校学習指導要領の文言を見直してみて、あらためてそう思った。


このブログを読んでいる人の中には学習指導要領なんて見たことない人も多いだろう。
日本の学校教育は学習指導要領に基づいて行われる。
現在使われている学習指導要領は、平成10年に改訂されたもので「平成10年版学習指導要領」と呼ばれている。

ここは重要な点なのでしつこいようだが確認しておきたい。
この学習指導要領は、けして、戦前から連綿と続いているものではない。
平成10年に改定された「新しい」学習指導要領なのだ。
その学習指導要領の「国語科」の「指導計画の作成と各学年にわたる内容の取り扱い」に以下のような教材選定の観点が示されている。


「我が国の文化と伝統に対する理解と愛情を育てるのに役立つこと」

「日本人の自覚をもって国を愛し、国家、社会の発展を願う態度を育てるのに役立つこと」


もう一度言おう。
この学習指導要領は平成10年に改訂された「新しい」学習指導要領に掲載されている文言である。
戦時下の学習指導要領(戦時下にはそんなものはなかったのだが)ではない。


日本の文化を愛することを悪いと言っているのではない。
わたしが恐怖を感じるのは、「愛する心を育てること」が「教材選定の観点」として示されているという事実だ。

わたしはバリバリのフェミニストだが、
そんなわたしだって、
「男女平等の精神を理解し、フェミニズムの理念を尊重する態度を育てること」
…なーんて文言が「教材選定の観点」として示されることには反対である。
そんなのオカシイと思う。


男女平等の精神を理解することは大切だ。
(差別問題にかかわったことのある人ならよくわかるだろうが)無知であることはやっぱり罪だから。
だけど、そのことと「尊重する」「愛する」という問題は別問題だ。
それは個人の思想の問題であって、
そういうことを、国民の義務である義務教育の内容にしてしまうのは、国家によるイデオロギー統制ではないか。


しかも、そーんなイデオロギー統制バリバリな文言を掲載しているくせに、
しれっと…

「児童の読む図書については、人間形成のため幅広く、偏りがないように配慮して選定すること」

…なーんて書いてしまう、この鈍感力。
そんな矢先、たまたま寄った本屋で、読書感想文の「課題図書」コーナーを見つけて、あらためて苦笑してしまう。


偏りがあるのは、お前ら自身だろうがっっ!!

マンガもアニメも見ない人間に「偏り」どうこう言われたくありません。
そういう輩に限って、見もしないくせに
「マンガはお菓子です。お菓子だけでは人間は生きていけません。良い本を読みましょう」なんて言いやがるんだよな。

「良い本」ってなぁに?
それこそ、偏ったイデオロギーを流布するための装置でしょ?


…あーあ。
こんなに怒ってたせいで、この文言、絶対忘れられないよ。
そんなわけで、なんだかんだ言いつつ、勉強は進んでいます。

言葉しか要らない

2007-08-09 22:19:40 | わたし自身のこと
生きることを真摯に考えられる人は美しいと思う。


生きるために、体は必要なのだろうか。
わたしがいくら、言葉しか要らないといっても、
わたしの体は残りつづけてしまう。
でもわたしにとっては、
体だけが残り、言葉が失われていくほうが、
果てしない恐怖だ。


わたしの体は世界とつながることができない。
わたしに残されているのは言葉だけだ。
どんなにストイックに生きようとしても、
わたしは自分の言葉だけは手放せない。

遺産相続パラダイス

2007-08-09 22:01:10 | わたし自身のこと
実は、今、わが家が遺産相続でもめている。

遺産相続問題なんてまったく遠い世界のことだと思っていたら、
いつの間にやらこんなに身近な話になっていた。
驚きである。


実をいうと、今でもどういう人種の人たちが、いったいどういう事情で、遺産相続なんかの問題でもめたり…面倒くさいことになったりするのか理解できない。
なので、これを機会に、
なぜ、日本人が遺産相続でもめるのかを考えてみたい。


先に結論を言うと、遺産相続問題が生じる原因は、
日本に古くからある「不平等」を前提とした慣習と、
「平等」を前提とする法的なルールとの矛盾にあると考えられる。


日本の慣習は人間が「不平等」であることを前提としている。
いまだに差別はなくならないし、
いまだに男性の賃金より女性の賃金が低い。
カリスマと権威にべったり甘えながら、
優越感と劣等感を交錯させることによって成り立っているのだ。日本は。


そういう社会の中では、
いまだに男性のほうが女性より「エラく」、
いまだに長男のほうが次男・三男より「エラい」のだ。きっと。
で、そういう優劣を決定する構造の中で、
遺産の相続者1名がなんとなーく見かけ上決まったように見えてしまうらしい。

法律上、手続きしなきゃ相続したことにならないのに。
法律上、なんの手続きもなければ、相続者は決まらないはずなのに。


そんなわけで、そんなふうになんとなーく相続者に決まったように見えてしまった人は、「この遺産はオレのモノ」という意識を持つようになる。

法律上、手続きしなきゃ相続したことにならないのに。
法律上、なんの手続きもなければ、相続者は決まらないはずなのに。


この状態。
すなわち、法律上ではまったくなんにも決まってないけど、一般的な信念においてなんとなく決まっている状態が、遺産相続問題の根本にある。
つまり、なんにも決まってないのに、「俺のモノ」意識だけができあがっちゃうから、他の人は口出ししにくいわ、その割りにソイツなんにも進ませようとしないわという状況ができあがっちゃうのだ。


…ああ!面倒くさい!!


国家が、相続手続きをしない人間に罰金を課すことにしたのは、ものすごく良い決定だった。
しかしそれでもなお、相続問題がなくならない現状を考えると、罰則をもっともっと重くするべきなんじゃないかと思う。


もういっそのこと、
1年間放置したら全額没収…とかそのくらいにしないとダメかもよ。

1年間なーんにもしない奴が相続人になっているにしても、
1年間相続問題でもめつづけて決められないにしても、
どっちにしろ、1年ぐらいで「ハイ、もうおしまい」って誰かが言ってくれない限り、人間関係がドロドロしていくだけ…って感じがします。


お金は、わたしたちが幸せになるためにあるのにね。

家庭科のオベンキョウ

2007-08-08 21:35:04 | 研究室
教員免許を持っていないわたしは、
来年度の「小学校教員免許認定試験」に向けて勉強を始めることになった。

とりあえず、まったく目にしたこともない教科が一番不安なので、
「図工」と「家庭科」にとりくんでみた。

はじめに「図工」にとりくんで、
次に「家庭科」。

この「家庭科」の勉強が楽しい!楽しい!
特に、食物関係は初めて知ることばかりです。
自分にあきれたり、発見の驚きがあったりでいろいろと面白くてたまりません。

一番の発見は、
わたしの食事のこれまでのダメさがわかったことでしょうか。


牛乳って「たんぱく質」に分類してたからパンと牛乳とレタスで完璧な食事だと思ってたけど、
牛乳や乳製品って「無機質」だったんだね…。

人間って一日に1500kcal以上も必要だったんだね…。
カロリーメイトって完璧じゃなかったんだね…。

バナナ・ダイエットとかリンゴ・ダイエットとかってかなり危険だったんだね…

家庭科のオベンキョウ。
意外なところで役に立ってます。

書くこと。生きること。

2007-08-01 13:36:08 | わたし自身のこと
書くこと。そして生きること。
…このことの関係についてずっとずっと考えている。

博士論文を書いていると、
わたしがずっとずっと考えてきたこの問題にあらためて向きあわざるを得ない。


わたしは、なぜ生きているの?

この問いに、確かな答えがあるとしたら、
それは、書くこととの関わりの中にある。
たとえ、「書くことを教える」という間接的なかたちであるにしても。


それだけは、確か。


・・・・・・

わたしは、世界から残されて、たったひとりだったから、
いつ消えてもいいと思っていた。


消えないための手段を考えていたわけじゃない。


だけど、せめて自分の痕跡が、たとえ微かな痕跡であったとしても、
残すことができたらと思った。


そのときに、わたしに残された手段は書くことだけだった。
あのときは、毎日、何かを書いていた気がする。


人と人とがつながるためのことば。
そのことばを痕跡として残すための「書くこと」。


痕跡は残される。
<いま・ここ>にいるわたしでない誰かに向けて差し出された痕跡。


誰でも、その痕跡を見ることができる。
わたしでない誰かもそれを見ることができる。
もちろん、<いま・ここ>にいるわたしでないわたし、未来のわたしも。


その痕跡を見るときに、
わたしは、自分が生きていたことを思う。


それは、わたしが生み出せるほんのかすかな光。
混沌とした闇の中で、わたしがわたしであることを知るための光。
わたしが一人でないことを知るためのかすかな光。