KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

なにかを守ろうとするならばそれを傷つけようとするすべてのものとたたかわなければならない。

2006-06-06 14:54:35 | 研究
コメントもせず、トラックバックをすることもせず、
ひっそりと、ここでわたしなりに自分の位置を確保しておきたいと思います。

今朝、ここ数週間取り組んでいた、
水戸芸術館HSSW2006の学会発表予稿集の原稿の考察を書き終えました。
まぁ、書き終えた…と言ってもこれから見直しをしたりしなければいけませんから、まだまだ完成とは言い難いのですが。

その考察の部分に書いた一節が以下のものでした。

「「読者」から「作者」への移行には、このように他者へと自分自身を開き、他者と協働して物語を生成していくという側面と、他者と自分との間に境界を設定し、他ならぬ自分自身の領域を守るという側面という、相反する二つの側面が存在している。」

こんな静かな一文をアカデミックな場に提供する文章に書くことができるのですから、わたしは本当に幸せものだと思います。

それはともかく、
ここでわたしが書こうとしたこと。

受け手としてただ生きるのではなく、
他ならぬわたし自身の生をうけおって、わたし自身として生きていくためには、
「他者と自分との間に境界を設定し、自分自身の領域を守らなければならない」

…というのは、ここ数年の間にわたしの中で確立されてきた
ひとつの真実です。

そして、
他者と自分との間に境界を設定しようとする限り、
わたしとは異なる他者を境界の外へと押しやらなくてはなりません。
すなわち「排除」しなければならないのです。

そして、わたしの領域を傷つけようとする者と闘わなくてはなりません。
他ならぬわたし自身であるために。
わたし自身の領域を守るために。

そういう形でしか、わたしは「わたし」でいられない。
人間というのは、そういう悲しいイキモノなのだと思います。

記号学者ジュリア・クリステヴァによれば、
人間は、誰かに「いいえ」=NOということを繰り返すことによって、
「自己」という存在を確定していくのだそうです。
それは一生涯つづく、不断の自分つくりのプロセスなんじゃないかとわたしは思います。

他者と自己との境界が曖昧な中で、ずっといつづけたわたしにとって、
「自分の敵は自分だ」といえることは、とても幸せなことだと思えます。
だって、「敵」と想定するほどの、明確な自分というものがすでに存在しているのですから。
でも、少し疑問です。
そんなに揺るがない自分自身、他者と確実に分離することのできる自分自身なんて、本当にあるのでしょうか?

わたしは常に変化していて、常に誰かとともにこの時代を生きています。
それなのに、そんなさまざまな変化にも揺れずに、誰の前でも一定の存在である自分自身なんて本当にあるのですか?

もし本当にそれがあると思えるのなら、
その人は、きっと、自分が誰かに対して優しくあろうとする可能性を捨ててしまった人なんじゃないかと思うんです。

なにかの事情で。自分を閉じてしまった人なのではないかと。

わたしは、優しくあろうとする人が好きです。
それは、つらいことではあるけれど、変化しつづける自分に向き合えることも、一つの強さなのではないかと最近、思います。


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