KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

ことばの肌理:大文字のことば・小文字のことば

2007-03-21 21:11:59 | フィールド日誌
「ことばには肌理がある」というのを初めに聞いたのは、
わたしの尊敬する臨床哲学者・鷲田清一氏の本の中でした。

確かその本は、「現代思想の冒険者たち」のシリーズの中の
『メルロ・ポンティ』だったと思います。
(もしかしたら違ったかもしれません)
実をいうと、わたしはこの本をすべて読破したわけではありません。

わたしの研究なんて意味ない、とか、
わたしの言いたいことなんて誰も理解してくれない、とか、
…そんな研究上での孤独感を感じたときに、
パラパラとめくっているだけです。

だけど、わたしは何度、この本に支えられたか、わかりません。
鷲田先生は、メルロ・ポンティの言葉の肌理をとても大切にしていますが、鷲田先生の著書に書かれる言葉の肌理も果てしなくおだやかで、やわらかくて明るいのです。
パラパラと数ページめくっただけで、なんとなくわたしが孤独から救われたような気になるのも、そういうことばの肌理のおだやかさややわらかさが、その本の中すべてにいきわたっているからです。


わたしがふだん書いている「論文」という表現媒体には、
「アカデミック・リテラシー」と呼ばれるようなさまざまなきまりや慣習があります。
そこで要求される言葉は、かたくて、しかも、閉鎖的です。
だから、わたしはそういうものがあまり好きではないのです。
いつもこっそり、日常使うようなポップな言葉を入れて、
担当教官に「言葉がやわらかすぎる」とか「言葉がポップすぎる」とか指導を受けたりします。
それでも、その中のいくつかは、そのまま論文に残っていたりして、
後から見ると、とてもうれしくなります。


わたしはこういう、理論武装して戦うためのかたくて閉鎖的な言葉を「大文字の言葉」と呼んでいます。
「大文字の言葉」を持ち出されると誰も逆らえない。
「大文字の言葉」があまりに閉鎖的で強い力を持つから、誰もそこに意見を言うことができない…そんな言葉です。
だけど、「大文字の言葉」は強くてしっかりしている(ように見える)から、「大文字の言葉」は人を弾きつけます。
まるで何かの目印になっている旗のように、人はそこに集まります。
そういう意味で、「大文字の言葉」は、広い意味での政治に関わる人にとって、とても便利で有用な言葉です。


でも、わたしはそういう言葉に抗っていたいと思う。
どんなに小さくてもいい、弱くてもいい。
ほんの少しの人にしか認められなくてもいい。
だけど、どこかで誰かを幸せにする言葉をつむぎだしていたいと思うのです。
世界の片隅で、ほんの少しずつ、世界が変わっていくようなそんなイメージ。
そんな小さな世界の変革を、小さな言葉で作り出していきたいと思うのです。



水戸芸術館という場所にいて、ずっと感じていたことはそんなことでした。


アートをめぐる「大文字の言葉」は、
わたしたちの周囲を取り囲んでいて、
わたしたちは身動きがとれなくなっていくような…そんな不安を感じます。


でもそれに小さな力で対抗する人たちも確実に存在する。
小さな言葉の生成を支援したり、
小さな価値観を賞賛したり、
そういうことで、「小文字の言葉」の存在を可能にしている。


一昨日、休みを利用して『マイクロポップの時代:夏への扉』(パルコ出版)のカタログを読みました。

カタログに書かれている松井みどり氏の作品批評の文章を見て、
自分のことばが失われていくのを感じながら、
それでも、
泉太郎さんのことを「愛おしい」と書いたわたしの幼い文章は、
間違いなく、松井みどりさんの手元に、簡易なコピー誌のかたちではあるけれど、残されたのだなぁと思う。

そう考えると、自分のことばがこの世界の中にきちんと消えることなく存在できたような気がして、ちょっとうれしい。


少なくとも、この世界の中に、何かかたちあるものとして、
わたしや高校生の言葉が存在しているということ。
消えないまま、誰かの手元に届いているということ。
それって、すごくすごく、意味のあることじゃないかなぁ。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (宙)
2007-03-24 15:30:27
癒された。

それはよかった (kimisteva)
2007-03-24 16:15:39
おう。それはよかった。
kimisteva冥利につきるね。