KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

アートをめぐるソーシャル・ネットワークづくり

2008-01-28 20:03:17 | フィールド日誌
先日、
わたしが関わっている「高校生アートライター」の第二回企画が行われた。

第一回目は、水戸芸術館でやっている展覧会を見てから説明会&顔合わせ。

第二回目の今日は、ワークショップである。

チラシに「アトリエ訪問&ワークショップ」とは書いてしまったものの、何をするかといろいろ考えた末に、3~5人くらいの小さいグループで、芸術館のまわりでアート作品の展示が行われている場所をまわることになった。
行き先の候補は、キワマリ荘、「遊戯室」(←キワマリ荘内にある)、アートワークスギャラリー、「まちの駅みと」、セントラルビルの5カ所。
このうち、1カ所か2カ所を、それぞれのグループでまわって、そこで出会ったアートについて紹介する原稿を書いてみよう!

・・・というのが今回の流れである。


本来の「ギャラリーガイド作成」に向けた中間段階という位置づけのせいで、
ハッキリ具体的な意図やイメージを持って行われたワークショップではなかったが、
かえってそれが良かったような気がする。
(もちろん集合時間から開始までのグダグダっぷりと、外歩き時間の少なさは反省)

実際にやってみて、
あとから、「ああ。これはこういう意味があったんだなぁ!」と気づく実践は多くあるが、まさに今回のワークショップはそんな感じだった。

ちなみに、わたし自身は、
すでに2時間のドライブ中、話に花をさかせまくったT大生2人(しかもうち一人は、nakaさん)、プラス、カフェ・スタッフ仲間のりりーちゃんという、かなり内輪な仲間で、
キワマリ荘の寒いこたつ(なぜか玄関先にある)にあたりながら、
有馬かおるさん(キワマリ荘オーナー)の話を、だらだら1時間近く聞きつづけて終わってしまったが、
なんだか、わたしは、それで満足だった。

まだ展示準備中のキワマリ荘では、展示準備を進める星さん(作家)が、
自分の作品をもってきて、ひとつひとつ手渡しで、からくり絵(?)やからくり絵本(?)の説明をしてくれた。
まだ、かけられる前の絵は、おそらく100円均一で買ったと思われる額に入れられていて、額にはでかでかと「315円」と書かれたシールが貼られていた。

有馬さんは「あっち(「まちの駅」から回ると思ったよー」といいながら、走って帰ってきて、ぜぇぜぇと息をならしながら、展示を案内してくれる。


わたしは、作家に直接会うことにあまり喜びを感じない人間であるし、
先日、森美術館で、「直接作家さんと会えて親しくお話できますよ!」とサポートメンバー会員を薦められたときには、心底、気持ち悪く思ったが、
それでも、こういうのはなんかいいなぁ、と思うのだった。


「作家に会えるから楽しい」、というのとは違うと思う。
そうではなくて、
これはもっとふつうに毎日感じているような「なんかいいなぁ」である。
案外、自分の住んでいるところの近くにおいしい店を見つけて
「こんなところに、こんなところがあったのかぁ」と思ったりとか、
あるいは、ブログでコメントもらったり、あるいはmixiで友達の輪が広がったり、
わたしだったら、「おもしろそう」と思える学会や研究会を見つけたりしたときとか、
そんなときに感じる、「なんかいいなぁ」である。

そう。
これは、自分にとって社会的なネットワーク(ソーシャル・ネットワーク)が、ちょっと広がったときに感じる、そういう感覚。


そんなことを思っていたら、
参加者の高校生たちに書いてもらった原稿にも、
そういう「なんかいいなぁ」が示されたコメントがたくさんあって、この感覚がわたしだけのものでなかったことを再確認した。
セントラルビルにいったある高校生は、セントラルビルの中にある店でお気に入りのものを見つけて、それを「買ってしまいました!」と書いていて、
わたしは、その原稿を見て、「これだよ、これ。」と大きく頷いた。


水戸芸術館の「内側」でやることは、やっぱり、限界がある。
それは何かというと、「芸術館」「美術館」という枠組みそのものが、
来る人たちの心に、「作り手」対「受け手」という二項図式を刻印してしまうところにある。
美術ギャラリーの中に入れば、やっぱり白い壁がずーーっと続いているわけだし、そこに展示されているものたちは否応なく、「僕たちはアートですよー」「アートとしての価値があるんですよー」と主張してくる。
わたしたちは、そんな主張をする作品たちの前で、ただ自分が「受け手」であることを自覚し、作品たちの主張を受け入れるしかない。

でも、街という場所は違う。
そこは、逆に、そこを通る人たちが自分たち自身が勝手に意味をつくりだして良い世界だし、そういう勝手に作り出す意味こそが、「価値」と呼ばれる世界である。
「ユニクロ」は買い手がそれぞれ勝手に「自分らしさ」という意味を見出して、商品を購入する。
売り手が用意しているのは、さまざまな色のさまざまなデザインの洋服だけだ。
あの場所では、見る側=買う側の自分勝手な想像力だけが「価値」を作り出す。


気に入ったものだけ買えばいい。気に入らなければ買わなきゃいい。
そういう「価値」の作り方が、街にはあると思う。


そういう場所であらためて、アートに出会ってみることは楽しいことだし、
そういう社会的ネットーワークの広がりのひとつとして芸術館が位置づくことは、すごく健全なありかたのような気がする。
美術館が展示する権威ある作品の「信者」になるのではなくて、
自分のライフスタイルのひとつとして「そういう場所もあるよね」って言っていられることのほうがずっと大切だと思う。

少なくとも今回のワークショップには、
そういう意味があったかな、と文集を見ながら、そんなことを考えた。


最新の画像もっと見る