KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

女として生きることへの漠然とした不安:「産む機械」発言について

2007-02-05 19:52:29 | ニュースと政治
電車でAERAの中吊りを見たら「産む機械」発言の特集がされていた。

わたしのいる大学は、「女は30過ぎたらただの肉の塊」発言をした某教授がいるような、セクハラ発言容認大学なので、「産む機械」といわれようが「産む装置」といわれようが、今さら何よ、という感じもする。
ジェンダー問題にセンシティブであることに、たまに疲れてしまって、感覚が麻痺しかけているのかな、と思うときがたまにある。

フェミニストからの批判はすでに多く浴びせられているし、AERAでは斉藤美奈子も記事を書いているようなので、いまさら「女を「産む機械」なんてたとえるなんてひどい!最低だ!」なんて言わない。

だけど、わたし個人の問題として、「これは本当に先が暗いなぁ」と思ってしまったことはここに書いておくべきだと思う。

わたしも20代後半で、しかも、「この人とならずっと一緒にいてもいいなぁ」と思える相手が近くにいるので、たまに、結婚のこととか、出産のこととかも考えたりする。そして、それと同時に就職のことも。そして、わたしを育ててくれた…そして将来的に(現在もだけど)介護すべき家族のことも。

…で、それらを考え合わせると、どう合理的に考えても、「結婚や出産なんてできるはずない」という結論にたどりつく。少なくとも、出産なんて無理だ。これ以上、わたしがケアするべき人間が増えるなんて考えただけで絶望的になってしまう。

高等教育機関での常勤仕事もしなければいけないし、研究もしなければいけないし、パートナーのケアもしなければならないだろうし…、でさらに実家の家族のケアもして、…そしてさらに、子ども!?この教育費がやたらとかさむ時代に子ども!?

あ り え な い

どう考えたって、どこかにしわ寄せがきて破綻するにきまってるじゃないか。
少なくとも、完璧にこなすという計画ははじめから破綻してる。
第一、今だって、非常勤講師と研究をかね合わせているだけだって、倒れそうなほど大変なのに…
それに、わたし、体力ないし、不器用だし…

絶 対 い つ か 、 た お れ る !

…いやだ、いやだ、いやだ!絶対、無理!


「幸せ家族計画」とはどういうものなのかが想像つかない。

残された可能性は「デキちゃった婚」しかないと思う。
(現実に「デキちゃった婚」が多いのは、わたしのように考える人が多いせいなのかなぁ)
計画とかとは無関係に、とにかく妊娠してしまって、「アタシに胎児を殺すことはできないわ」という倫理的な正義感の勢いにまかせて、エイヤッと出産して結婚してしまうしかないような気がする。


世の中のお母さまがたにおうかがいしたいのですが、
結婚して、出産することは、計画として成り立つのでしょうか?

少なくとも今のわたしには、成功する計画が立てられません。

そんなわたしに「産む装置」発言はかなり重いストレートパンチでした。
…いや、むしろ「機械」や「装置」だったらどんなに楽か、と思った、といったほうが正確。
何も考えない、そしてケアする必要も、完璧にやりたいという強迫観念も、子どもやパートナーや家族に対する責任もない「機械」「装置」だったら、そりゃもう、バンバン、子どもを大量生産してやりますよ。わたしは。

それができないのは、一方で「機械」「装置」として語られるくせに、人間として生きる倫理的責任を負わなければならないからです。

厚生労働大臣がそんな発言をするこの時代に、わたしはこれから、結婚や出産をしなければならないかもしれない…。
これほど、重苦しくつらいことはありません。

新しい規範の登場:社会的ネットーワークの広がりと規範の形成

2007-02-05 18:08:32 | フィールド日誌
先週の土曜日に水戸芸術館で新しい企画展「夏への扉-マイクロポップの時代-」展が始まった。

そんなわけで、微熱つづきでそろそろ体力が限界を向かえつつある体で
久々にメールや友人のブログをチェックしてみると、
けっこう多くの人たちが「行ってきましたー」報告を行っていた。

わたし個人としてはすごくビミョウな心境である。

わたし自身、行きたかったけど体調が悪くてオープニングに行けなかったから残念だったよぅ…という思いもあるのだが、それ以上に、ひどい罪悪感を感じている。

要するに、自分の中で「企画展オープニングには行くべきである」というのが、規範化しているようなのだ。

まあ、フィールドワーカーだから、そんな罪悪感も感じるだろう。
…とも思うのだが、よく考えると、昨年はそんな規範はなかった。
「「高校生ウィーク」会場にできるだけ行かなければ」、というのはあった気がするが、展覧会そのものとして規範を持った覚えはなかった。

きっと、こういう規範というのは、人とのつながりの中で形成されるものから、水戸芸術館に通うにつれて「水戸芸、大好き!」な人々と関わりが増えた結果として、自分もこういう思いを抱くようになったんだろうと思う。

とはいえ、わたしはそういう文化に触れる一方で、
まったくそういうこととは無関係なところで水戸芸術館と関わる安定したスタイルを持つ個人でもあるので、
そういう、いろいろなところの狭間にいるのが、ちょっと苦しくもある。

でも、「わたし」として生きる、ってそういうことなのかな。
いろいろなコミュニティや文化とかかわりつつ、その狭間でそれらをつなぎあわせながら何かを生み出していく。
それが「わたし」として生きるということなのかもしれない。