KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

夢はお姫様:合格発表日エピソード集

2007-02-21 10:02:39 | 研究室
昨日はわたしが所属する大学院博士課程の合格発表日でした。
そんなわけで、今日から水戸芸術館で高校生ウィークが始まるというのに、まったくその準備(…っていってもあとはほとんどないけど)もできず、そちらに意識を向けることすらできず、あわただしく一日が過ぎ去っていきました。

とりあえず、朝からひどかった。
本年度から研究生で来ていた留学生(本年度受験)が、受験票を「捨ててしまった」らしく、しかも受験番号も忘れたとかで、テューターをしている(同じく留学生の)PINGOちゃんとともにバタバタ。
研究室内外を走り回ってました。
…最終的には、受験案内の入った封筒に受験番号が記載されていることを思い出して、そこでチェックして一件落着したんですけどね…。

捨てるのか。捨てるのか…受験票を。
ちょっとカルチャーショック(?)でした。

でも同時に、受験番号を忘れる…というただそれだけで、何をどうがんばってもあとから修復できない(=どこに行っても自分の本当の受験番号はわからない)というシステムにもショックでした。
情報保護にこんなにも熱心なのは、電報詐欺があいついだ時期があったからなのか、匿名性の保護を重視するためなのかよくわかりません。
とりあえず、わかったことは、
日本の学生は受験票を捨てないことを前提とされている…というよりは「受験票をなくす人は論外」とされているということです。
そう考えると、けっこう画一的だな、とも思えてきたりします。

まあ、それはともかく表題に戻りましょう。
この日、合格発表があったというので、夜には合格者の祝賀会がありました。
祝賀会では、わが研究室に科目等履修生でいらっしゃっているポストドクターの方とその娘(5歳)が来ていて、ご想像どおり、ずっと5歳の女の子と遊んでました。

塾や家庭教師をいろいろやってきていて、さらに、リテラシーの社会・文化的文脈のことを研究上よく知っているわたしは、いつも、「この子はとっても順調な発達のコースをたどっているなぁ」と思います。
要するに、いわゆる主流文化のリテラシー実践を、きちんと、段階的に身につけていっているのです。
この「読書はなれ」が問題視される世の中。そのことそれ自体が驚きの事実のように思えます。

人はなぜ本を読むようになるのでしょう?
その答えは、意外と単純なことなのだと思います。
要するに、「そこに何かある」と思えるから。
本の世界の中に、「何か」があると思えるから人は本を読むのではないでしょうか。
(ちなみに物語内容を重視するリテラシーへの見方はいわゆるアカデミックな文化に通用するリテラシーへの考え方であって、普遍的なものとはいえません。
ファッション雑誌のように現実との重ね合わせにおいて意味をもつリテラシー実践も、大きな文化として確かに存在しているからです。ただその場合も、本の中に「そこに何かある」という思いを抱いていることは事実でしょう)

だから本の中に、物語の中に「そこに何かある」と思えること自体が、
読書文化への、とてもとても大切な入り口なのです。

その子(仮にEちゃんとします)はわたしに言いました。

「Eはね。本当のお姫さまになるの。だから、劇ではお姫様はやらないんだ」と。

現実の世界と発表会の劇で作り出される虚構の世界が違うものであることを認識しながらもなお、その世界の魅力が語られる。
そして、現実はその物語によって豊かになる。
…そういう世界の作り出されかたが、この言葉から見えてくるように思うのです。

社会構成主義者のケネス・ガーゲンはいいました。
我々が「キス」という言葉とその社会文化的な意味を知らなければ、それはただの肌の接触に過ぎない、と。
「キス」という言葉の意味。「お姫様」の意味。
それらをわたしたちは、物語によって知っている。そして、それがどれだけ魅力的なことであるかを知っている。
だから、キスに感動するし、「お姫様になりたい」と思えるわけです。

わたしたちが作らなければいけないのは、こういう意味での物語と現実との関係なのだと思います。

だからさ。
だから、「青い煙」がどうだっていいのよ。
「ごんぎつね」が何歳だろうが、別にどうだっていいのよ。