KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

メールの文章と人格

2007-02-26 18:34:59 | 研究室
「文章は人を映す鏡」と申しますが、
書くことの教育と研究に携わっているとそのことを実感します。
逆に言うと、
「こう書くと、こういう印象を持たれるから止めとけ!」という指導を専門学校生にしています。kimistevaです。

今日、研究室で残った仕事を片付けていたら衝撃事件がありました。

とある研究所で職を得ている方なのですが、
「滞納している学会費を払った上で論文を投稿したいのだが、冊子は図書館にあるので必要ない。だから、請求する学会費を安くしろ」

…と簡単に言えば、こういう内容のメールを学会紀要編集幹事であるわたしに送ってきたのです。
衝撃でした。
世の中にはいろいろな人がいるものだとは思ってましたけど、
よくすでに研究職を得ている大人の方が、一介の院生にこういう依頼をするものだなぁ、と驚愕しました。
わたしの父親は、義理と人情に生きる堅気の職人なので、
確定申告でさえ

「変なことしてると思われたらシャクだから、金払ったって、税理士さん頼んだほうが間違いねぇよなぁ!」

…なんて言ってます。
変なところでケチなこと言って社会的な信用を落としてしまうことがある…と、父はよくわたしに語っていました。
そんなわけで、わたしの世界も義理人情です。

そういえば、以前、セクハラで訴えられたことがあることで有名な同じく研究職の方から、その方の著書を送っていただいたことがありました。
その著書の中にはさまれた手紙に、

「女性の方はポストを得ると、研究が進行しなくなるので、kimistevaさんも気をつけて」

というようなことが書いてあって、友人USAM島さんと一緒に「うそー!すげー!初対面の人間にこんなこと書いちゃうんだっ!」と驚愕した思い出があります。


失礼きわまりない…というよりは
常識がない。

そして、そのどちらの方も、社会的な評判がよろしくないところを見ると、
「メール(手紙)が変な人は、やっぱり変な人なんだ」
という結論が導き出されます。

研究の内容と人格が一致しないことは、ルソーが証明していますが、
どうやら軽く送ってしまうようなメールなどは、人がらが反映してしまうようですね。

誰かの声に耳をかたむける方法

2007-02-26 17:43:33 | フィールド日誌
なんだかこのブログだけ見てると、毎日ものすごくつらい思いをしているように見えますが、そんなことはありません。
ブログの件で直接声をかけていただいたり、メールいただいたり、心配させてしまったりしたので、これだけはハッキリ言っておきたいと思います。

むしろ、楽しく過ごしていると忘れてしまいそうな
小さな心の動きや
ちょっとした隙間に生じてしまった心の傷を見つめなおすために
ブログを書いている、という感じです。

このブログ(=フィールド日誌)は、フィールドノートの清書があらかた片付いたあとに書いています。
フィールドノートには、その日、すごく印象的だったことを書いています。
その中には、わたし含め高校生ウィークに参加するさまざまな人たちの間で何か学びが生じたり、関係性が変容したりするキラキラした瞬間がたくさん詰め込まれています。
(今年はあえてネガティブな側面も拾おうと思っているので、隙間に生じた小さなため息や誰かによって独り言のように語られた悩みなんかもはさまれていますが、わたしがそういう声に近づけるということ自体が、とてもすてきな人間関係の変容のように思えます)

そういうフィールドノートをガガガガッと書いたあと、残ってしまう…未消化なまま残ってしまった小さな傷をここでは拾っていこうと思っているのです。
まるで「ユートピア」が実現されたようなカフェの隅で、
ひっそりと生じてしまう傷。
それを見つめなおすことで、別の視覚から、カフェの場を見直すことができるのではないか。それこそが今年やるべきことなんじゃないか、と思うのです。

(とはいえ、2つ前の記事は単なる仕事の多さへの愚痴という側面が大きいですが…。
ちなみに大学での事務仕事もあまり苦痛ではないです。
むしろ「バリバリ働くキャリアウーマン」にもなってみたかった自分を実現するステキな機会です。)

それはともかく、今日一日、自分の中の小さな傷を見つめなおしてみて、わかったこと。それは、「誰かの声に耳を傾ける方法」はひとつではない、という、考えてみればあたりまえのことでした。
さらに言えば、わたしが今身につけている方法は、かなり特殊なものなので、理解されなかったり、忌避感を示されてもしかたないだろうということもわかりました。

たとえば、「誰かの声に耳をかたむける方法」の中で、一種のスキルとして確立されているのは、ロジャース派のカウンセリング・スキルだと思います。

いわゆる「傾聴」。

ライフストーリー・インタビューの方法を用いる研究者の中でも、傾聴を非常に大切にしている人たちもいます。
とにかく、おだやかなことばで語りかけ、相手の声を待つこと。
それが大切なこととされます。
(ちなみに、これはただのイメージに過ぎないことを付け加えておきます。
このことは、ロジャーズのカウンセリングが収録されたビデオ映像を見た人は、ロジャーズのしゃべりっぷり、ツッコミっぷりに驚きます)


これを「誰かの声に耳をかたむける方法」の一種の模範のようなものとして考えてみると、わたしのコミュニケーションは明らかに「理想的でないコミュニケーション」です。
「ダメなコミュニケーション」です!!(そんな話を以前、スクールカウンセラーをしている知人にも言われました(笑))
『看護コミュニケーション』とか『カウンセリング技法』の教科書だと、絶対にイラストに「×」がついている、アレです。

何しろ、真っ先に自分が発言するし、声がハキハキして強すぎるし、
ツッコミはげしいし、毒舌だし、最悪です。
ついでにいうと、初対面だとちょっと威圧感あるらしい(専門学校生談)し、最悪もいいところです。

小学校の頃に、同い年の少女たちに
「kimsitevaちゃんはナイショ話ができないから嫌い!」といわれたことを思い出します…

きっと、それが人によっては気に障ったりもするのかな、と思いました。
そう思ったら、気が楽になりました。

自分がコミュニケーション能力高いなんてちっとも思わないし、むしろ低いほうだと思うけれど、
それでも、わたしのことを受け入れてくれる人たちがたくさんいることを思い出したからです。

こんなわたしでも、とつとつと自分のことを話してくれる高校生もいました。
「わたし、kimsitevaさん、好きですよ。」と一言、ぽつりと言ってくれる方もいました。
わたしは、本当に不完全で、確立されたスキルもなにもなく、ただその場で自分にできるだけのことを必死にやってしまうだけだけど、
それでも、そんな不完全なわたしのコミュニケーションを拾ってくれる人は、けっこうたくさんいたわけです。

そんななかで、わたしも必死に誰かの話に耳を傾けようとしてきたことも確かなのです。
そして、わたしに向き合って語ってくれた人たちがいたことも。
わたしのやってきた方法は、確かに、ロジャースが提案するような確立したしっかりしたスキルではないけれど、わたしにしかできない、わたしだけの声のすくいかたなのかなぁ…、と今ではちょっと思います。

ただ、自分がずっとカウンセリング通いだったせいか、ロジャース的な傾聴スキルに感情的な忌避感を示してしまっていることも確か。
つい、おだやかに「…どうしたの?」と言われると、無言を通してしまいます(←ダメすぎ)
これは自分の課題として、これから、受け入れるようにしていきたいなぁ。

いろいろな人がいろいろな考えをもって生きていく中で、
わたし自身にできることを、少しずつ考えて、実践していくことが大切なんだな、とあらためて実感しました。