気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

ロマン漂う奥浜名湖への道草「方広寺・半僧坊」

2008-09-29 00:10:27 | 気ままな旅

 昨日は静岡県磐田市や浜松市内で20時頃まで、ビジネスをした後、次の目的地の道中にある東名高速道路浜名湖SA(サービスエリア)で車中泊をしていた。
 9月22日(月) 朝早く目覚める。
 昨日の天気と違って、今日は快晴の天気である。
 この浜名湖SAは、浜名湖やその周辺の景観の良い場所に造られている。
 このSAは丁度、東京と大阪の中間に位置し、レストランやコーヒーショップ、それにショッピングコーナーなどの施設が充実、休憩をとる人達で賑わいを見せている。
 SA内には公園もあり、訪れる人達が思い思いにくつろいだり、散策している姿があった。
 また、浜名湖は、半島や岬・浦などがの起状にとんだ湖で、面積は約65k㎡、湖岸延長は120kmで、全国10位の広さを持つ湖である。
 南側の太平洋に面した一帯は、R1号線やバイパス、東海道線や新幹線が走る交通の要所でもある。
 浜名湖と太平洋を結ぶ狭い湖域は、水の流れも速く、絶好の釣り場で、多くの人達で賑わっている。
 また、近辺の景観の美しさも抜群で、海中に立つ紅い鳥居が厳粛の雰囲気を感じさしてくれる。
 その外に浜名湖はリゾート地として、マリンスポーツやテニス、ゴルフなど、シーズンには多くの観光客で賑っている。

           
  1号線バイパス浜名大橋を通過中の車窓より妻が撮影した浜名湖弁天島、赤い鳥居も見える
 
 今日は幸いにして、次のビジネスの予定が変更になり、夕方まで空いていた。
 どこに行こうか! 地図やパンフなどを見ながら考えていると、SA内のパンフで綺麗な庭園の写真に目が止まった。
 浜名湖周辺にある龍潭寺(りょうたんじ)である。
 早速、行くことにしてカーナビをセットする。
 勿論、訪れるのは初めてで予備知識も全くない。
 この浜名湖周辺には、私の知らない観光施設が色々と有りそうである。
 愛車は東名高速道路の下りSA(名古屋方面)にとめている為に、次の三ケ日ICからは、一般道を走行して行かなければならない。
 ICから一般道に入り、しばらく走行して行くと、狭い山道に入り、車はどんどん高度を上げながら進んで行く。
 途中で奥山高原の看板が目にとまった。
 この高原からの浜名湖の景観を、期待に胸を膨らませながら進路変更して行ったが、残念ながら期待したような景観を味合うことは出来なかった・
 この高原は、遊園地のように観覧車などの設備も整っている。
 季節によっては、桜や紫陽花などの花や、子供達の喜びそうな動物との触れ合い、自然の生き物の観察などが出来そうである。
 しかし、私達は奥山高原の散策はせずに、すぐに元来た道を引き返して行った。
 山道から平坦な所まで降りてくると、道路は広くなり、良く整備されていた。
 走っている道路の側には田んぼがあり、稲が成長している。間もなく稲刈りが始まりそうであった。
 田んぼのあぜ道や、道路脇の裾には、赤い彼岸花が咲き誇り、季節を感じさしてくれ、秋の里山風景をかもし出している。
 程なくして、大きなお寺の建物が見え出した。
 ハイキング姿の数十人の初老の男女が、リュックを背負いながら下りてきている。
 街並みの奥には、門があり、さらにその奥には赤い門が見えている。
 これだけの人たちが、参拝して下りてくることは、ここは有名な寺に違いない。
 早速、寺の駐車場に車を止め、入口で拝観料を支払い境内に進んで行った。

         
              早朝の浜名湖SAより館山寺方面を望む

          
               浜名湖SAよリ西方向を望む

                      
                      浜名湖畔で仲むつましいカップル

          
          自然観察や遊園地など色々な楽しみ方ができる奥山高原  


           
         通称黒門と呼ばれる方広寺総門  半僧坊と言われている

 このお寺は方広寺というお寺である。
 この方広寺は、案内の看板などから臨済宗方広寺派の大本山であるらしい。
 静岡県引佐郡引佐町奥山に所在している。
 お寺の歴史を見ると次のような記載があった。
 至徳元年(西暦1384年=南朝元中元年)後醍醐天皇の皇子である無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)によって開かれた寺である。
 無文元選禅師は、18歳で出家され、21歳のときに中国に渡る。
 7年間の厳しい修行の後、元の兵乱を避けて帰国され、その後、当地の豪族、奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)が、自分の所領の一部を寄進して、堂宇(どうう=堂ののき、堂の建物、堂の意)を建立し、無文元選禅師を招き、禅師によって寺が開山される。
 そして、この寺一帯が、禅師が修業された中国の天台山に似ていることから、深奥山方広寺(じんおうざんほうこうじ)と名づけられた。
 現在では、末寺170ケ寺を擁し、その大部分は静岡県西部地方に所在する。

          
            周囲の地形の大きさに合わせて造られた朱色の山門 

 両側に山が迫り、朱色の山門を抜けて参道を進むと、大きな松や杉などの樹木が生茂り、左側には小さな小川が流れている。
 大きな樹木が太陽光線をさえぎり、寺院独特の冷気が漂い、厳かな雰囲気をかもし出している。
 大きな樹木の間には黒っぽい岩肌がむき出しになっており、その岩肌の上に無数の石仏が並んでいる。
 最初はこの近辺だけかと思っていたが、参道左の川向こうの岩肌の上にも、無数の石仏が並べられている。
 参道を進むに従って、さらに多くの石仏が並べられ、この境内独特の雰囲気を一層厳かにしている。
 そして、一つ一つの石仏を良く見ていると、表情が全く違っているのに気がつく。
 石仏の表情を静かに見詰めていると、すべての石仏の表情が心豊かで、見ている私達の心を、一層和ましてくれているように感じてくる。
 この石仏を羅漢と呼び、この方広寺は五百羅漢で有名な寺であった。
 現在でも、羅漢は造られ続き、750を越える羅漢があるそうだ。
 両サイドに並ぶ、無数の羅漢に見守られながら参道をさらに進んで行く。
 まるで、お釈迦さまや観音さまのお慈悲に浸っているようである。
 参道脇の樹木は一層生茂り、山沿いの谷も深く、厳かな雰囲気をかもし出している。
 無数の羅漢の中に「哲学の道」と書かれた石碑が立てられている。
 京都東山にある銀閣寺から南禅寺疎水沿いある「哲学の道」を西田幾太郎先生が散策されたことにちなんで造られた「禅哲学の道」である。
 この道を過ぎると赤い鳥居が見えてくる。
 鳥居の中央には「奥山大権現」の看板が掲げられている。

          
                 奥山大権現の看板を掲げた紅い鳥居   

           
             穏やかな表情の羅漢       石橋の上の羅漢
 
 五百羅漢は宝暦年中、三河の石匠親子二代によって造られ、表情が豊かで見る人々を和ませてくれる。
 石橋の羅漢は、時には四体、時には五体になり、方広寺の不思議なひとつでもある。

          
                それぞれに豊かな表情をしている羅漢

          
                椎河大竜王(しいがだいりゅうおう)

 この椎河大竜王にも逸話がある。
 開山さまが中国から帰国され、行脚の途中の天竜市鹿島辺りで、暴風雨で増水した河の渡河に難儀されていた折に、竜神が現れ、その身を橋として渡したという。
 その竜神は、また姿を現して開山さまに「いまわしい蛇身の苦しみからの解脱をさしてほしい」と懇願した。
 開山さまは経典で、その蛇身をなでられたところ、たちまち五百年来の苦しみから解脱して昇天したという。
 その竜神は、美女と化かし、天皇の命を受けた将軍の妻として、田村俊光公を産んだ大蛇で、その後、磐田の里の椎河の渕に身をひそめ、里人から椎河大竜王と畏敬されていた。
 開山さまのお徳で五百年来の蛇身を脱することができた竜王は「永久にこのお山の水を守護します」と開山さまにお誓いをした。
 竜神の霊験はあらたかで、方広寺や周辺の地域は、一度も水不足に悩まされることはなく、干天の際には全国から椎河竜王に請雨法(しょううほう)と修したお祈りすれば、必ず雨に恵まれるので全国から御参りする人が後を絶たない。
 方広寺では、この椎河竜王と半僧坊大権現、それに七尊菩薩堂を”奥山三社”といっている。

 椎河大竜王を遥拝した後、参道を登って行くと、谷に架かった紅い通路があった、今は使われてないようだ。
 さらに進むと広い参道に出る、目の前に7尊菩薩堂(重要文化財)があった。
 多くの人たちが参拝に訪れている。三重の塔方面の参道の端には、隙間のないぐらいに「半僧坊大権現」と書かれた小さな幟がたてて並べられ、それぞれに信者祈願の文字が書かれている。
 逆方向が半僧坊真殿で、こちらも大勢の方が参拝に訪れている。
 石の参道を真っ直ぐに行くと石段があり、石段を登ると真殿の拝殿である。
 拝殿所の天上の左右には、一刀彫された竜があった。
 参拝をすました後、方広寺本堂に向かった。
 途中の境内には鐘楼があり、本堂と半僧坊の間には開山堂と観音堂の伽藍がある。
 本堂に入って参拝した後、各伽藍を見学、本堂の裏手にある「らかんの庭」に行った。

          
               方広寺七尊菩薩堂(重要文化財)
   
 富士浅間大菩薩、春日大明神、伊勢大神宮、稲荷大明神、八幡大菩薩、梅宮大明神、北野天満大自在天神の七神を合祀する鎮守堂で応永8年(1401年)の建立された。

           
                三重の塔           半僧坊真殿

 三重の塔は大正12年、故間宮英宗館長の発願で京都山口玄洞氏の寄進により建立された。
 奥山半僧坊大権現は、開山無文元選禅師が中国から帰る途上、台風に遭遇して、船が難波する危険が生じた時、一異人が船に姿を現して「開山禅師が正法を日本に広める為に、必ず日本にお送りします」と言って、船頭を導き、水夫を励まして日本に帰国さしたと言われた。
 開山禅師が方広寺に到着した時に、再び現れて、禅師の弟子を願い出て許され、禅師の身辺に仕えて修行したと言われている。
 その姿が僧のようであって、完全な僧の姿をしておらなかったことから、禅師から「半ば僧にあって僧にあらず」といわれ、「半僧坊」と名づけられた。
 禅師が遷化された後は、「方広寺を護持し、民に利益を与えよう」といって姿を隠したと伝えられている。
 以来、御利益を求める善男善女の信仰をいただいて今日に至っている。

          
                  半僧坊の拝殿

          
                 半僧坊拝殿上の一刀彫の龍
 
           
                鐘 楼           高く聳える半僧杉

           
                  本堂からは通路で結ばれている観音堂

          
           開山堂には開山円明大師の尊像を安置、開山堂前の庭園

          
          臨済宗方広寺派の本山 深奥山(しんのうざん)方広寺本堂

          
                   方広寺 本堂の裏にある庭園

          
                  与謝野晶子の歌碑がある「らかんの庭」

 全くの予備知識のないままに、このお寺に来らて本当に良かったと思う。
 方広寺は色々な面ですばらしいお寺で、また、お寺とはいえない半僧坊の存在と
が、一体となっていることに珍しさを感じた。
 一つ一つの表情豊かな五百羅漢の存在も驚きの連続であった。
 こういった寺院などの見学は、自然体となって落ち着きと安らぎを感じさしてくれる。
 そして、色々な知識と知恵を与えてくれ、それが明日へのエネルギーとなって、自分を前向きな気持ちにさしてくれる。
 このような旅の余韻を感じながら方向寺を後にして、次の目的地へ向かって行った。