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万葉集を分かりやすく解説~泣沢の女神~

2020-03-30 08:57:54 | 地域と文化
万葉集をわかりやすく解説~泣沢の女神~

作者:檜前女王(ひのくまのおほきみ) (巻2の202番歌)

泣沢(なきさは)の 神社(もり)に神酒(みわ)すゑ 禱祈(いの)れども わご大君は 高日知らしぬ
(訳:泣沢の女神に命の黄泉がえりを願って神酒(みき)を捧げて祈るのだが、わが大君は高く日の神として天を治めになってしまった。)
・・・解説・・・
 この歌は「万葉集」の中で最長の歌である柿本人麻呂の高市皇子挽歌(巻2の199番歌)の反歌の一首です。
一方で、「類聚歌林(るいじゅうかりん)」という歌集には「檜隅女王の泣沢神社を怨む歌」として掲載されているとの注も添えられているのです。
「万葉集」が編纂された当時から作者は柿本人麻呂か檜前女王かの二説があったということになります。
「類聚歌林」とは、「万葉集」巻1の6番歌の注の山上憶良が編集した歌集であったと記されており、ほかの箇所にも引用されていますが、現存しません。
檜前女王は、この歌の作者としてのみ名前が伝わり、系譜や生没年などは一切不明なのです。
この歌の注ではさらに、高市皇子の死に関する「日本紀」の記事を紹介しています。現行の「日本書紀」(巻第30)によれば、持統10年(696年)7月10日に「後皇子尊薨(のちのみこみことみまか)りましぬ」と記されており、「万葉集」の注と合致するのです。
天武天皇の最年長の皇子ではあっても母親が皇族ではなかったため皇嗣とはなり得なかった高市皇子を「後皇子尊」と称したのは、「皇太子」とされた草壁皇子亡き後にそれに次ぐ人物とみなされたことによるといわれています。
「高日らしぬ」とは、天孫とされた天皇にこそふさわしい死の表現であり、太政大臣であった高市皇子にとっては破格の扱いといえます。
「泣沢の神社」とは、現在の橿原市木之本町の畝尾都多本(うねおつたもと)神社であり、祭神は伊邪那美命が火の神を産んで亡くなった際に伊邪那岐命が嘆き悲しみ流した涙に成った泣沢女神である、と「古事記」上巻に記されているのです。
この女神に祈れば命がよみがえると信じられていたようです。しかし、祈りもむなしく神となって天上世界へ去ってしまった、という嘆きがこの歌では表現されているのです。
万葉集ゆかりの地「畝尾都多本神社」
この神社ですが、神殿はなく玉垣で囲んだ空井戸をご神体としており、境内には末社の八幡神社が鎮座しています。

    


           


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