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日本書紀ゆかりの地を巡る~子部神社~

2020-03-31 07:33:45 | 地域と文化
日本書紀ゆかりの地を巡る~子部(こべ)神社~
「日本書紀」を紐解きながら、1300年前の人々に想いを寄せてゆかりの地を巡っていきましょう。
~巻第14「雄略天皇」~
 462年、大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけるのすめらみこと)(第21代雄略天皇)は、妃に桑の葉を摘ませ、養蚕をすすめようと考え、臣下である蜾臝(すがる)に蚕を集めるように言いました。
すると蜾臝は誤って子どもたちを集め、天皇に献上したのです。「蚕」と「子」が同じく「こ」と発音する語であったため、勘違いしてしまったのです。
天皇は大笑いして、連れてきた子どもたちを蜾臝自身で養育するように言い、少子部連(ちいさこべのむらじ)と言う名を与えたのです。
また、あるとき天皇は、蜾臝に「私は三諸岳(みもろやま)の神の姿が見たい。お前は力が強いので捕まえてこい。」と命じます。
蜾臝が三諸岳で大蛇を捉えて天皇にみせたところ、その蛇は雷のような音を轟かせながら目を爛々と光らせたので、天皇は恐れてご覧にならず、蛇を丘に放させました。そして、その丘に雷(いかづち)と言う名を与えました。
また、「日本霊異記(にほんりょういき)」には、蜾臝(「日本霊異記」では栖軽)が亡くなった後、雷が落ちた場所に彼の墓をつくり、「雷を捕まえた栖軽の墓」と碑を建てました。
すると雷は怒ってその碑を蹴り割ろうとしたところ、柱が割けたところに足が挟まって抜けなくなりました。
そして天皇は、「生きても死んでも雷を捕まえた栖軽の墓」と碑を建て直したのです。これが雷丘のはじまりといわれています。
雄略天皇は、日本国内の古墳の副葬品に刻まれていた銘文から、実在の人物であり、中国の「宋書」に記されている倭の五王の中の「武」であるとも考えられています。
~子部神社~
子部神社は、多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこふる)神社の摂社で、祭神は小子部命(ちいさこべのみこと)です。
蜾臝が子供を養育した場所が奈良県橿原市飯高の付近とされており、子部の里といいました。
この子部神社から100m程西にも同名の子部神社があり、小子部命を祀っています。


    



        



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