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万葉集を身近に

2021-01-13 13:35:44 | 地域と文化
日本に現存する日本最古の和歌集「万葉集」を身近に!
巻2・202番歌 詠人:檜前王女

泣沢(なきさは)の 神社(もり)に神酒(みわ)すゑ 祈祷(いの)れども わご大君は 高日知らしぬ
(訳:泣沢の女神に命のよみがえりを願って神酒を捧げて祈るのだが、わが大君は高く日の神として天をお治になってしまった。)

解説
 この歌は、「万葉集」中で最長の歌である柿本人麻呂の高市皇子挽歌(巻2・199番歌)の反歌の一首なのです。
一方で、「類聚歌林(るいじゅうかりん)」という歌集には「檜隈女王(ひのくまのおほきみ)の泣沢神社を怨む歌」として掲載されているとの注も添えられています。
つまり、「万葉集」が編纂された当時から作者は柿本人麻呂か檜前女王(ひのくまのおほきみ)かの二説があったということになるのです。
「類聚歌林」とは、「万葉集」巻1・6番歌の注に山上憶良が編集した歌集であったときされており、ほかの箇所にも引用されているのですが、現存はしていなのです。
檜前女王は、この歌の作者としてのみ名前が伝わり、系譜や生没年などは一切不明です。
この歌の注ではさらに、高市皇子の死去に関する「日本紀」の記事を紹介しています。
現行の「日本書紀」(巻第三十)によれば、持統10年(696年)7月10日に「後皇子尊(のちのみこのみこと)薨(みまか)りましぬ」と記されており、「万葉集」の注と合致します。
天武天皇の最年長の皇子ではあっても母親が皇族ではなかったため皇嗣とはなり得なかった高市皇子を「後皇子尊」と称したのは、「皇太子」とされた草壁皇子亡き後にそれに次ぐ人物とみなされたことによるといわれています。
「高日知らしぬ」とは、天孫とされた天皇にこそふさわしい死の表現であり、太政大臣であった高市皇子にとっては破格の扱いといえるのです。
「泣沢の神社」とは、現在の奈良県橿原市木之本町の畝尾都多本(うねおつたもと)神社であり、祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)が火の神を産んで亡くなった際に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が嘆き悲しみ流した涙に成った泣沢女神である、と「古事記」上巻に記されています。
この女神に祈れば命がよみがえると信じられていたようです。
しかし、祈りもむなしく神となって天上界へ去ってしまった、という嘆きがこの歌では表現されているのです。