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万葉集を身近に

2021-01-01 13:53:56 | 地域と文化
日本に現存する最古の和歌集「万葉集」を身近に
巻2・116番歌 詠人:但馬皇女

人言(ひとごと)を 繁みに言痛(こちた)み 己が世にいまだ渡らぬ 朝川渡る
(訳:人の噂が多くうるさいので、うまれてはじめて、夜明けの川を渡るこよよ。)

解説
 この歌の題詞には、「但馬皇女(たじまのひめみこ)が高市皇子の宮におられた時、ひそかに穂積皇子(ほづみのみこ)と関係を結び、その事が露見して作られた歌」とあります。
ここの登場する高市皇子・穂積皇子・但馬皇女はいづれも天武天皇の子ですが母親はそれぞれ異なります。
古代の慣習では異母兄弟の間での恋愛や結婚は特に問題とされていませんでした。(今では考えられませんが)
但馬皇女は、異母兄弟である高市皇子の宮で同居していながら、同じく異母兄弟の穂積皇子と密通し、そのことが世間に知られてしまって二人は自由に逢うことができなくなったそうです。
そうした障害を乗り越えてみせるという彼女の決意が、「生まれてこのかた渡ったこともない朝の川を渡る(この当時では、川は男女の逢瀬を隔てる象徴だっのです)」と表現されています。
当時の皇子女は、皇子宮(みこのみや)という宮宅を各自所有して居住していたのです。
高市皇子宮は香具山の麓に立地していたようです。
但馬皇女はこの宮の主である高市皇子と同居していたことから、高市の妻の立場であったと言われています。
一方、穂積皇子宮の場所は不明でしたが、2003年に橿原市出合町・膳夫町で行われた発掘調査において、藤原京期の道路側溝跡から「穂積親王宮」と書かれた木簡が出土しました。
木簡出土地点は香具山から北へ約1㎞の位置にあり、この付近に穂積皇子宮が立地していた可能性があります。
高市皇子の子である長屋王が平城京で居住していた邸宅跡では、父の高市皇子宮を指すとみられる「北宮」の意であるとすると、高市・穂積の両皇子宮はかなり近接していたのかもしれません。
なお、藤原宮跡から出土した木簡に「多治麻(たじま)親王宮」と書かれたものがあり、高市皇子が持統天皇10年(696年)に亡くなった後、但馬皇女は独自に皇子宮を構えたことが判明しています。