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万葉集を身近に

2021-01-02 13:21:32 | 地域と文化
日本に現存する日本最古の和歌集「万葉集」を身近に!
巻1・35番歌 詠人:阿閇皇女

これやこの 大和にしては わが恋ふる紀路(きぢ)にありといふ 名に負ふ背の山
(訳:紀州路にあるとしてかねて大和で心ひかれていた背の山。これこそ、その名にそむかぬ背の山よ。)

解説
 この歌は「背の山を越えし時に、阿閇皇女(あへのひめみこ)の作りませる御歌」と題された一首なのです。
「これやこの」とは、これがあの有名な〇〇か、という意味の慣用句で、これまでは伝え聞いていただけで見たことがなかった光景や事象を目の当たりにした感動を表現するときに用いられるのです。
「背の山」とは、大和国(奈良県)から紀伊国(和歌山県)へ行く道の途中にある背山(和歌山県伊都郡かつらぎ町)とされます。
「日本書紀」巻第二十五に載る大化2年(646年)の詔(みことのり)では畿内の南限とされており、畿外との境界のランドマークとして旅の歌などに詠み込まれました。
畿内とは都とその周辺地域を指し、現在の「近畿」という言い方などにその名残りがみられます。
「背」は「兄」の意味で、古代日本では夫や恋人など親しい男性へ呼びかける言葉として用いられたのです。
これに対して親しい女性を指す言葉として「妹(いも)」という言葉が用いられました。
「万葉集」には「妹背の山」(巻4・544番歌など)とも表現されており、背山の山頂が二峰あることに基づく呼び名であるとも、紀の川を挟んで向かい合う妹山(同町長者屋敷)と一対の表現であるともいわれています。
作者である阿閇皇女は、後の元明天皇なのです。
この歌が詠まれた年月日は記されていませんが、直前の歌が持統天皇4年(690年)9月の紀伊行幸時の歌であることから、同じ行幸の際の歌であった可能性が指摘されているのです。
690年の歌だとすれば、阿閇皇女は夫であった草壁皇子を前年に亡くしていたことになります。
皇女はどんな気持ちで「背の山」を見たのでしょうか。
そこには、有名な地名の現地を初めて訪れた感動や旅の道程への感慨だけではない、「背」という言葉に対する深い思いがあったことを想像させてくれます。

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