近代日本人の発想の諸形式 所収
「近代日本(きんだいにほん)における「愛(あい)」の虚偽(きょぎ)」
「してもらいたいことを人にしろ」という命題と「してもらいたくないことを他人にするな」という命題が前提とする思想に違いがあるという洞察については、著者の慧眼であろう、しかし、彼のいう、キリスト教圏における、男女・夫婦の愛というのは腑に落ちない。
一解説によれば、
と言うことなのだそうだが、しかし、キリスト教圏において男女・夫婦にそのような愛を求めていたかどうかは定かではない。
確かに、結婚の誓い において、一生できることがないような誓いをし、それについての虚偽を云々するのは結構な話であるが、かといって彼らの愛の実情が彼が推定していたようなものであったかどうか?
因みに、著者は、日本人にとっての男女間の関係というものは、
ということなのだそうである。では、西洋ではどうだったのか?
西洋においても、結婚というものは、男女に社会生活の生存における実利的な共同体であったし、また、富を増やす方策でしかなったので、愛なぞというものは考えられてもいなかった。愛が語られる結婚などというものは、ロマンス小説でたまに現れる位だったのである。
偶然ネットで拾っただけだから、なんだが、それが実情だろう。
(西洋人の考える愛に様々な点については、例えば、 Conditions of Loveを参照。また、愛に関する理論については、以前に記した記事
なども参照。)
愛についての観念が東西問わないなどというつもりはないが、 どうもハーレクイーンロマンが実在すると錯覚するのはうら若き女性だけではなく、西洋に惚れた一部日本のインテリも同じらしい。
「近代日本(きんだいにほん)における「愛(あい)」の虚偽(きょぎ)」
西洋の考え方では、他者との組み合わせの関係が安定したときに心の平安を見いだす傾向がつよいこと、東洋の考え方では、他者とのまったき平等の結びつきにういて何かの躇(ためら)いが残されている・・
孔子の「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」という言葉を他者に対する東洋人のもっとも賢い触れ方であるように観じる。他者を自己のように愛することはできない。我らのなし得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである、と。
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「してもらいたいことを人にしろ」という命題と「してもらいたくないことを他人にするな」という命題が前提とする思想に違いがあるという洞察については、著者の慧眼であろう、しかし、彼のいう、キリスト教圏における、男女・夫婦の愛というのは腑に落ちない。
一解説によれば、
愛は「自己に対するときのように、他者に為す」という不可能への挑戦です。敢えてそこに近づくために、キリスト教では「神」という唯一で巨大なものを前にします。その前に立てば、隣人は自分と似ることができ、自分と同じ立場にあることができるという論理です。リンク
と言うことなのだそうだが、しかし、キリスト教圏において男女・夫婦にそのような愛を求めていたかどうかは定かではない。
確かに、結婚の誓い において、一生できることがないような誓いをし、それについての虚偽を云々するのは結構な話であるが、かといって彼らの愛の実情が彼が推定していたようなものであったかどうか?
因みに、著者は、日本人にとっての男女間の関係というものは、
。それは「惚れること」であり、「恋すること」、「慕うこと」である。しかし、愛ではない。性というもっとも主我的なものをも、他者への愛というものに純化させようとする心的努力の習慣がないのだ。近代日本(きんだいにほん)における「愛(あい)」の虚偽(きょぎ)
ということなのだそうである。では、西洋ではどうだったのか?
We have moved from a time when marriage was important just for our sheer survival. The first evolution of marriage was meant to aid in continuing our species in a somewhat safer environment from that of a lone woman being impregnated by a passerby, then left to give birth by herself in a nest of leaves under a bush somewhere. Both the woman and child were in extreme danger, vulnerable to whatever came along, be it weather, beast or another human. Meanwhile, the lone passerby who impregnated the woman may have met his demise as well, by running into another, stronger human.
Together, marriage gave couples back then a better chance of making it through at least to their children's independence. Together they found shelter, fire, food and water - and defense against others.
From there we moved into marriages of convenience. These were arranged marriages, from the poorest of society to the highest bred. The poor married not only to combine together whatever meager ownings they had, but also to connect with whomever was most convenient geographically. The highest bred arranged marriages to combine wealth, landholdings and armies.
Love in these marriages was not even considered. Oh, it was an asset some thought in the wealthy set, while most others thought it a hinderence to accidently fall in love with one's wife. There were mistresses for that sort of thing. Here and there in history one finds an arranged marriage where love successfully existed, such as that which developed between King George III and his German wife. But such marrieages were novelties of sorts, rare enough to become fodder for romantic novels. リンク
西洋においても、結婚というものは、男女に社会生活の生存における実利的な共同体であったし、また、富を増やす方策でしかなったので、愛なぞというものは考えられてもいなかった。愛が語られる結婚などというものは、ロマンス小説でたまに現れる位だったのである。
偶然ネットで拾っただけだから、なんだが、それが実情だろう。
(西洋人の考える愛に様々な点については、例えば、 Conditions of Loveを参照。また、愛に関する理論については、以前に記した記事
なども参照。)
愛についての観念が東西問わないなどというつもりはないが、 どうもハーレクイーンロマンが実在すると錯覚するのはうら若き女性だけではなく、西洋に惚れた一部日本のインテリも同じらしい。