Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

中国のナショナリズム

2008年03月17日 17時42分45秒 | Weblog
「行儀良くしていれば、文化と恩恵を守ってやるのに」とあるブロガーはチベットについて記している。

 「お行儀が悪くても、それでも文化は面倒を見てやる。博物館に収めてね。漢民族は正しいと信じている!」

 多くのブロガーは、亡命中の宗教的リーダーで、ノーベル平和賞受賞者のダライ・ラマが暴動を扇動していると非難している。

 「単純な僧侶たち。単純なチベット人。独立運動を陰で動かしているものを知っているんだろうか?」とあるブログには書かれている。

 あと6カ月足らずでオリンピックが開かれる北京の住民も、同様の意見を示している。

 「中国政府はこのガンを切り取らなければならないと思う。まずはダライ・ラマから。たとえわれわれがダライ・ラマと関係なくても、この暴動の背後にいる連中を逮捕すべきだ」とSongと名乗る男性は述べている。ITメディア魚拓


中国のナショナリズムがこれほどとは。

因みに久しぶりの投稿のMeine Sacheさんのコメント欄から。

ビル・トッテンさん

2008年03月17日 15時33分03秒 | Weblog
近くの本屋ブラブラしてたら、トッテンさんの本が棚積みされていた。この方
なんかほんまに日本人顔になってきたなあ、と思う、なんとなくね。
本買ったかって?・・・・な・い・しょ♪
因みに、このひと、アンポンタンさんのところのマックさんじゃないかな、と思っている。両方とも菜食主義者だしね。

チベットを救え!!

2008年03月17日 15時26分28秒 | Weblog
米流時評さんが、チベットの抗議活動を弾圧する中国に対して非難するブロガーたちを紹介している。いろいろな動機はあろう、しかし、いずれにせよ、日中友好が大切だとしても、やっちゃいかんことはいかん、と言ってやるのが友人たる資格だろう。
 おれも声を上げることならなできる。そして、多くの人が声を上げれば力にもなろう、というものだ。
 中国よ、チベット弾圧をいますぐやめれ!!!


 ところで、世の中を生暖かく見守るブログさんがいつもは「平和」「反戦」「人権」を叫ぶブログやサイトの本件に関する不気味な沈黙についてまとめている。ほんま不気味やな。ついでに人気サイトきっこのブログをみても不気味な沈黙。犬猫は可哀想でもチベット人はいいってか?都知事の失態をたたくのはいいとしても、チベットはなしかい?ここいらへんが、おれが心底不気味に思うところや。







自由・義務・権利の論理関係

2008年03月17日 13時39分39秒 | Weblog
 W. N. ホーフェルド (Wesley Newcomb Hohfeld)って、ちょっと興味あって、日本の法学の本なんてでもさわり程度は紹介されているがさわりしかない。ネットでもみても大してないから、著書を見てみたい気もするがなんせ値段が高い。で、しかたないから、いまのところはネットで紹介されているで空想するしかない。で、ここが一番よかった。
で、立法者が社会である行為Cに対して、やらせたい、やらせたくない、どちらでもよい、という態度をとれるが、それぞれについて、

Cはやらなくてはならない
Cはやってもやらなくてもよい。
Cはやってはならない

と表現し、ある種の行為について、ある種の人々に負担を負荷したりしなかったりすることで行為規制する。
法律に翻訳されると、

Cをすることは義務
Cをすること(しないこと)は自由・特権
Cをしないことは義務

で、
それぞれに対応させてある種の人々に資格・適格・利益を与えてたり、与えなかったりする。
とすると、その人は
Cをやらせることができる。
Cをやらせることもやらせないこともできない。
Cをやめさせることができる。
法律に翻訳すると
Cをやらせる権利・請求権がある。
Cをやらせる・やらせない権利・請求権がない。
Cをやらせない権利・請求権がある。

で、
義務の反対が自由・特権、義務に対応するのが権利、自由・特権に対応するのが無権利
つまり、

請求適格・権利→→義務←→自由・特権←←無権利・請求無適格


と整理される。
例えば、あるフォーラムのパネリストについて、立法者が発言を促したければ、
そのフォーラムの人に発言する義務を課し、発言するしないについて無関心であるならば、特権・自由を与える。パネリストに義務があるとき、聴衆には、彼・彼女に発言をさせる権利がある。
 黙秘権というのは、自分に不利益な供述について話してもいいし、話さなくてもいい、という特権・自由であるが、裏から言えば、それは義務がない、強制されない、強制するのは違法だということであり、強制されれば、特権・自由の侵害がある、ということである。で、侵害されれば何らかの救済が必要となる。


多分、
同様に責任←→免責・権能←→無能力に規定される。
 権能とは、法律関係・権利・責任を措定する能力である。

 批判も多くあるようだが、非常にすっきりした理論ではある。



 


  





2008年03月17日 12時37分36秒 | Weblog
ミルグラム実験っちゅうのは社会心理学で習った覚えがある。権威さえあれば、人は容易に他人を苦しめることもする。
スタンフォード監獄実験ってのは、知らんかった。特殊な状況と地位さえ与えられれば、人は自発的にでも他人を苦しめるようなことを示す実験だったらしい。
で、リンク先の悪の定義は非常に明解だ。
Evil is the exercise of power to intentionally harm (psychologically), hurt (physically), or destroy (mortally or spiritually) others.Lucifer effect
悪とは、心も体も道徳心も意図的に破損・破壊すること。

また、罪とも関連ずけられていて、
In the Hebrew Scriptures, evil is related to the concept of sin ― "sinned" translated in Hebrew as chata which means, "missed the mark" (a term from archery). The mark in question is the law of God.
神の掟破りの罪=悪
evil(wiki)

こうした悪と罪への堕落が至上の快感であると説き、その快感への誘いをしたのがマルキ・ド・サド
で、悪ないし悪へと誘うことを象徴的に人格化したのが悪魔


 非常に思考を刺激する話題であるが、特定の人に巣くっているわけではなく、ごく普通の人が容易に直面しうる問題だからこそ、形を変えて多くの文学作品などの対象とされるのだろう。