Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

華は愛惜にちり、草は棄嫌におふる

2008年03月22日 02時08分17秒 | Weblog

諸法の仏法なる時節、すなはち迷語あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり、衆生あり、
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく、衆生なし滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷語あり、生仏あり、
しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり』

現代語訳1
現代語訳2
現代語訳3


で、3行目までは、まあ、まあ、自分でも納得いくものだった。解釈もわりに一定している。いくつかあげると、
すべてのものごとを仏道の立場から見るとき、迷いと悟り、修行のあるなし、生と死、解脱した人とそうでない人との違いが明らかになる。全てのものごとを無我の立場から見るとき、迷いもなく悟りもなく、解脱した人もなく解脱しない人もなく、生も死もない。
もともと仏道は、有るという立場にも、無いという立場にもとらわれないものであるから、生死を解脱したところに生死があり、解脱のあるなしを問題としないところに解脱がある


一行目は仏法には迷悟、修証、生(死)、諸仏、衆生等々がある。二行目はそれらのすべての事象は個々に独自の特性というものはなく、種々様々な諸要素の有機的組み合わせで成り立ち、一体として流れている、運動し行動している。三行目は仏道的立場、行動する側に立てば、「迷」の時は「迷」だけの一法、一事象のみあり、そこには「悟」のひとかけらも入り込む余地はない。迷一如である。「生」の時は「生」一法のみあるのであって、「死」の介入は許されない。生一如である


 とくに3行目が面白い。「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後裁断せり」の段落にかかるのだと思う。エマソンなどが近い境地を示している。
These roses under my window make no reference to former roses or to better ones; they are for what they are; they exist with God to-day. There is no time to them. There is simply the rose; it is perfect in every moment of its existence. Before a leaf-bud has burst, its whole life acts; in the full-blown flower there is no more; in the leafless root there is no less. Its nature is satisfied, and it satisfies nature, in all moments alike. But man postpones or remembers; he does not live in the present, but with reverted eye laments the past, or, heedless of the riches that surround him, stands on tiptoe to foresee the future. He cannot be happy and strong until he too lives with nature in the present, above time.
窓の下に咲いているバラは以前の自分の姿や、もっとすばらしい自分の姿など想像しません。それはただあるのです。神とともにあるのです。バラにとって時間などないのです。たんにバラなのです。その瞬間瞬間が完璧な存在なのです。つぼみが開く以前も全生で花が開いても全生なのです。根っこのときも全生なのです。欠けるところがなく、どの瞬間も自然なのです。人は明日や昨日を思ったりします。人は現在に生きていません。過去を嘆き、他人をうらやんだり、まだ未来を当てにしたりしています。時間を忘れて、現在に自然とともにあって初めて幸せや強さが訪れるものです。
Emerson


 4行目については、ネットで専門家の解釈を見ると、花愛惜に散る、というところをわりに否定的にみるのがおおい。
花が散り草が茂るのは、自然の事であり、おのずからの事であります。それを人間は「ああ惜しい」とか「また生えやがった」とか勝手な思いを押しつけますリンク

四行目はそのような真理の中にあって、人間が花や雑草に対し感情を持って見るすなわち煩悩があるため、誤ってしまう

しかしなお、そのことがわかっていながら、解脱を愛し求めれば解脱は遠ざかり、迷いを離れようとすれば、迷いは拡がるばかりである。

至道無難 唯嫌揀択

真実の道(悟り)へ至のは難しいものではない。唯、好き嫌いだと選り好みをやめることである。三祖大師、鑑智僧燦の「信心銘」の有名な冒頭の言葉である。

「花は愛惜に散り 草は棄嫌におふるのみ」と道元禅師は人の心の有様を指摘される。わたし達は愛し、惜しむ心の上に花の存在をとらえ、嫌いに思う心の上に、すぐにはびこる草の存在をとらえるが、花しろ草にしろ真実の存在は私達の思いの外にある。個人もちの尺度を手放したところに、真実の世界は広がると言うのである

 しかし、こうしたとらえ方は腑に落ちない。確かに枯れ木のような境地もいい、しかし、こうした解説を書いている高尚な人々は、ほじゃ、愛する人を失って、あるいは、愛する人を失って嘆き悲しむ人を見て、あるいは、嫌な奴が来ても何の心も動かないのか、ロボットのような心持ちしか持ち合わせていないのか?ーーというとそうではないでしょう。
また、 このように解釈すると、現成公案の最終段落の麻浴山宝徹禅師の話が活きてこない。最終段落にかかってくると見た方が面白い。その話というのは、
麻浴山宝徹禅師が、扇をつかう〔ことに〕ちなんで、僧が来て問う、「風性(風の性質)は常住(常に住む)にして(いつも)、処として周(いた)らないことがない。どうしてさらに和尚は扇を使うのか」。

師がいうには、「なんじはただ風性常住をしっているとしても、いまだ処としていたらないということがない道理をしらない」と。

僧がいうには、「どういうことであろうか、処として周(いた)らないことがない〔ということ〕の底の道理〔とは〕」。

〔その〕ときに、師〔は〕、扇を使うだけである。僧〔は〕、礼拝する
仏法の証験、正伝の活路〔は〕、このようである。

常住であるので、扇を使ってはならず、使わない時も風をきくべきであるというのは、常住をしらず、風性をしらないのである。風性は常住であるので、仏家の風は、大地が黄金である〔の〕を現成させ、長河の蘇酪(発酵乳)を参熟しているリンク

 これとても、専門家たちはもともと悟っているのにことさらお悟りへの修行する必要があるのか、ということにつなげて解釈する。
A
B
 しかし、私はそうとらない。
 こんな話を聞いたことがある。、白隠さんのところで悟道したというある婆さんの孫が死んだ。婆さんは大泣きに泣いた。周囲の人がたずねる、「あんた白隠さんのところでお悟りをいただいたんじゃないか」婆さん曰く、「なにいうとる、こうして泣いていることがお経を唱えることなんじゃ」と・・
 こんな絵があるそうである。 イエスが教えを説く。一人の女はそれに聞き入っている。もう一人の女はぶつくさ不平をいいながら、イエスやその教えを聞きに来た人々のために、鍋やらなにやらをせっせと運んでいる。
 以前紹介したエックハルトトール は愛惜や棄嫌の念が生じたときについて、
・・・・don't deny or ignore the pain or the sadness you feel. Accept that it is there. Beware of your mind's tendency to construct story around that loss in which you are assigned the role of victim. Fear, anger, resentment, or self-pity are the emotions that goes with that role. Then be aware of what lies behind those emotions ・・・・that hole, that empty space. Can you face and accept that strange sense of emptiness? (page 109 "Stillness speaks")
苦しみや悲しみを否定したり無視したりしなで、それがあることを受け入れます。そこで、自分が被害者役を演じる物語をでっちあげようとしていないでしょうか? 恐れや、怒り、憤りや、自己憐憫と感情があるとき、同時に自分にそうした役柄を与えているものです。そうした感情の背後にある、空洞、空虚さを観じることができますか?そうした不可思議な空の感覚を味わえますか?

というように、愛惜の念の真裏にも空が作用していることを看てとっている。

 分別の世界あり(第1行)、それが拒絶され否定しつくされた、無分別・平等の世界あり、(第2行)、また、そこからこの世を覗いた前後裁断・無時間・永遠の今の世界がある。(第3行)、それでありながら再び、日常の世界に舞い戻り、時計が動き出し、そこで、泣き、そこで笑う(第4行)平等常住の世界があり、暑い寒いの世界があり、こうして扇を扇いで涼んでいる。庭に草が生えたなのと言えば、「やれやれ」と思いながらも、草むしりるする。愛する人が亡くなれば、大泣きする。これとても避ける心もなければ、抵抗する心もない、泣きなさ~~い、笑いなさ~い、がきらきらと輝いている世界。
 バラをみれば、バラ。そして、前後裁断、バラはバラになりきって、また、私はバラになりきって、枯れるだろう明日の世界を持たないから、そのまま永遠である。それはそれですばらしい境地である。であるにせよ、水もやらなくちゃならない。剪定もしなくちゃいけない。どれか一つの世界に住するのではなく、自由に横断し、そうした世界すべてを受用しそれらが収まっているこの一つの世界が仏性として黄金のように光り輝いているんだ、それを看よ、と。
 
 そうした意味では十牛図の第10図の境地に近いのではないか、と思うのです。
なお、十牛図については、
α
β



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