Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

北京オリンピック開会式をボイコットせよ

2008年04月07日 23時19分30秒 | Weblog
チベット亡命政府が収集した情報をまとめると、1949~1979年の間に死亡したチベット人は、120万人を下らないという結果になる。
ダライラマ法王日本代表事務局

で、もって推定ということだが、
チベット族の所得は漢族のほぼ5分の1産経

でもって、チベットの人の声、
「自分よりも他人の方が大切」という文化のチベット人は、他人からお金を巻き上げてまで金持ちになりたいとは思わない。物質的に良い暮らしができれば、確かに幸せだろうけど、もっと大事なのは宗教。チベット人は金持ちになりたいのではなく、自由になりたい。昨年、ダライ・ラマ14世がアメリカで勲章を受けて以来、中国政府はチベットの民族衣装を禁止し、チベット人は中国風の服装を強制されている。着たいものすら選べない。ラサの町は近代化され、中国政府はラサに多額の投資をしていると宣伝しているが、チベット人が所有するものを奪っていることについては何も言わない。毎年、多くの旅行者が寺院を訪れ入場料を支払っているが、それはすべて中国人たちの懐に入る。ラサのほとんどの商店は中国人経営で、それはつまり、市場や雇用を左右するのも中国人ということL'ECUME DES JOURS ~日々の泡~

 侵略しておいていまでもこれじゃあ、暴動もおきるわなああ。
 
 で、もって日本との関係
、チベットは世界のもっとも資源の豊かな国です。230万平方キロメートルのところは、ものすごく資源が豊富です。それからチベットのほかに、ウイグル、内モンゴル、それから朝鮮系の人々などなど、みなさんが今日できたら、中華人民共和国っていう国を地図を一回広げていただくと、なんとか自治県、自治州、自治区、自治と書いてあるところは全部中国以外の領土だということ、それして自治と書いてあるところは自治がないから自治と書いてあるということを是非皆さんに思っていただきたい。それを全部合わせたら、日本の経済界は日本の利益とか言ってますけれども、日本の本当の長期的利益を考えたら、チベットに関心を持つことが日本の長期的な利益だと思います。それから戦略的にも地政学的にもチベットがいかに重要であるかということは先生方に私が申しあげるまでもありません。チベットに対して、モンゴルに対して、ウイグルに対して、日本が大きな関心を持つことができれば、中国と日本も、正常な関係が成り立つと私は思います阿比留瑠比ブログ


でもって、世界の火消し祭り
リンク

日本としても中国のチベットに対する侵略と暴圧に対して象徴的行動をする必要がある。
侵略され、自由を求める人々の命がけの抗議を弾圧している国でのオリンピックにニヤニヤしながら参加というは日本の恥だ。競技に参加するな、とは言わない。ただ、

日本人(スポーツ選手、政治家など)は北京オリンピックの開会式をボイコットせよ!!
(依存症さんふうに)

中国の人々も協力してもらいたい。きみら侵略され弾圧される苦しみをよく知っているだろう。

映画「靖国」をめぐって

2008年04月07日 08時03分16秒 | Weblog

映画の靖国に関しては様々な意見が流通している。
保守の抗議運動を「恫喝」とする人もいる。お玉おばさんでもわかる 政治のお話
他方、配給会社が上映中止を申し出たのをあたかも不当な圧力にまけて上映中止になったかのように宣伝されているだけではないか、という憶測も流れている。世の中を生暖かく見守るブログ

 静かな抗議運動ならすればよいし、映画館で上映してその映画について具体的に批判すればよい。かりにそうした静かな抗議運動や議論までも「恫喝」として被害妄想し、対論者を陥れようとするならば、それはまたそれで自由な討論を育成すべき自由主義社会への裏切りである。

 ところで、写真は映画靖国の中にでてくるものらしい。
 おれは日本軍に無惨に処刑された人々とともに、無惨に飢え死にしあるいは苦しみのなか、靖国で会おうと散っていった英霊たちに敬意を表するものである。が、いままでの一部右翼のやりかたには非常に不満を持っている。この写真のようでは、メディアに対して逆効果しかないのはないか?
 おれは、コスプレは嫌いではないーーー別に自分でやるわけではないが、秋葉でコスプレしている連中は活き活きしている。それはいい。しかし、靖国でおじさんが軍人のコスプレすればメディアの餌食になるのは目に見えているだろう。 黒い街宣車とともに靖国からは消えた方がいい。

 戦争で犠牲になったあわれな人々の悲しみを静かにともに悲しむことができないのか?関連記事

自己満足したいなら秋葉でやってくれ。

真理論

2008年04月07日 04時20分21秒 | Weblog
池田信夫ブログ フーコーの真理論に関する本が紹介されている。ちょっと今度のぞいてみようかな?「インターネット無政府主義」の目を覚ますようなことは書かれているのかいな?
 フーコーの真理論に関するは当ブログでも以前紹介した。
 伝統的な真理論ってそんなおもしろいものじゃない。事実との対応することが真理であるという対応説、いやいや、体系と整合的であれば真実なんや、という整合説、うにゃうにゃ、有益な効果があれば真実なんやというプラグマティスト、うにゃうにゃ、経験の地平を切り開くような斬新な視点を開示しているものが真実なんや、というハイデカー系
 真理として通用している言説の裏に権力あり、という思想は新しいものでも何でもない。マルクス主義の系譜が「イデオロギー」として括った発想がそれだ。もっとも、それは虚偽意識として把握され、お前らが本当だと思っているのは構築された嘘っぱち、本当のことはオレらが知っている、といった発想があった。ポストモダン風になると、その本当のことっちゅうはないんや、あるいは、そんなもん不要なんやという。どんな言説もある特定の視点や価値観から語られるに過ぎないという視点主義に結びつくと地域的な真実しかないんだ、という相対主義になるか、あるいは、共約不可能な様々な真実があるんや、と多元主義的になる。
 で、要するに、ある自然的・社会的・国際的な事柄について論争がおきたとき、その参加者の文脈や体系から独立にその一方が真で、他方を偽だと確定的に審判してくれるような「実在」、あるいは、そうした「実在」を記述したり、そうした「実在」に根拠づけられたような「大きな物語」ってものがないんだ、神様のように中立的な観点から知ったかぶりして、審判するのは勘弁してくれよ、というのが現代のおおざっぱな潮流じゃないかな。
(ところで、おれはその昔、初めて真理論を米国の大学でならったとき、なにか違和感があったの思い出す。たしかに、西洋文化における重要な話題になることはわかるが、日本でもそうだろうか、とか、日本で真理に相当すると思われる大和言葉の「まこと」とともかなりズレているな、とか・・・・そうした違和感はいまでもぬぐいきれん。ユダヤキリスト教やイスラム教的な一神教の、神は死んだ、といわれても、そもそも そんな神がいない文化で育っておるのからのお)
 まあしかし、そうしたアカデミックな議論が現代の個々の政治状況や倫理状況で具体的にどのように生かされてくるかというと、要するに、人間は有限で、誤りを犯しやすい、そして個々人や他文化の人々は容易に誤解しやすいから、自分の価値観を安易に押しつけないように妥協すべきは妥協してお互い仲良くやりましょう、程度の常識的なところに落ち着く。
関連記事Moral Relativity
 人権の哲学的な根拠が希薄でもあっても、保護されるべき自由に関する解釈がいろいろあっても、いままで大きな物語のなかで末端に追いやられた人々も、結局は、そうした語彙を使って自己主張していくわけだ。
 おれは流行について行けないし、興味もないから、長崎屋サンバードか西友のノンブランドを着古していこう。いや、臨機応変、必要に応じて着替えます。