本 大東亜会議の真実
大東亜会議ってときに先の大戦を正当化するために言及されるが、しかし、素人のおれが考えてみても、先の大戦を正当化するには時期が遅すぎるだろう。一体どういうことだったのか?
ということだって。動機があって突っ走ったあとで、どちらかというと後でとってつけたような会議になってしまったわけだ。
アジアでは、日本の兵隊が行儀正しくしてたかっていうと、そんなことない。戦争犯罪も多くあったわけだ。だから、集まったリーダーたちからの不満もおおかった。なのになぜ強いて集まったか?
ということだ。
それまでの欧州の植民地のやり方がひどすぎた。アヘン戦争を始め、ベンガルの英軍による大量虐殺、豪州によるアボリジニの虐殺、オランダによるインドネシア人の半奴隷化などなど・・日本は日本で大義がほしい、アジア諸国はどんなチャンスでもつかんで独立したい。
インドシナ侵攻について、
では、うまく大義を貫徹したか?
インドシナ仏軍最高司令官モルダンに言わせると、
これじゃあなあ。
おれは、第2次大戦に対して疚しさを感じる世代でも、また戦時中の宣伝文句を信じて美化したい、と思うものでもない。
負けたから悪い、アジアを侵略したから悪いーーー両方とも正しいが、それだけでは何か足りない。なにを日本は見誤ったのか、何を見通すべきであったのか、そこらへんが知りたい。そこらへんが現代に通じる問題でもある。
日本は植民地支配最後のターゲットになった、だからこそ、自存自衛の戦いが必要だった、というのは一理ある。一理あるが、しかし、もちろん、だからといって、欧米をまねてアジアを侵略してよかったか、というとそうじゃない。
始める前から戦略も欠けていた。そして、なによりも大義も欠けていた。、美名と言われようが、きれい事と言われようが、それは必須である。アメリカはそれがうまい。また、大義を貫くフェアプレーもかけていた。そして、その大義を貫くフェアプレーも必要だった。現地の人々から信頼を得るような所作も欠けていた。確かに一部に日本の友情を示す行為もあったが、しかし、全般としてはやはり現地の人々の信頼を勝ち得るにはほど遠かっただろう。欧米の力に対抗するために欧米の不正なやり方に追随してしまった。大義とフェアプレーさえあれば負けていても尊敬は勝ち得ていたかもしれん。
いまの福田首相は大義がないーーー謝罪の気持ちからか、中国に低姿勢にでても、あれでは戦争からなにも学んでおらんな。
あの当時、先を見通していた人間として、石橋湛山があがるが、おれはもう一人、理想主義者でありまた現実主義者でもあった石原莞爾にも興味がある。
石橋のことだから、たんに理想主義からそういったわけではあるまい。
大東亜会議ってときに先の大戦を正当化するために言及されるが、しかし、素人のおれが考えてみても、先の大戦を正当化するには時期が遅すぎるだろう。一体どういうことだったのか?
43・・・「満州国と汪兆明政府の否認、中国や仏印からの即自全面的無条件撤兵、三国同盟の破棄」を要求したハルーノートは近代外交史上でも、異例の挑発的外交文書といえよう。
もし、戦前の米国が、中南米政府の否認、フィリピンからの全面的無条件撤兵、米英関係の白紙還元を要求されたとするばらば、米国内世論の白熱化を招くのは必至であろう。その意味でハル・ノートは限りなく挑発的であったといえよう。
45
「自存自衛」は戦争の動機ではありえても「目的」たり得ない
47
重光は、この大西洋憲章のいわば盲点を衝いて、「アジア解放」の理念を謳いあげてようとしたのである。
ということだって。動機があって突っ走ったあとで、どちらかというと後でとってつけたような会議になってしまったわけだ。
アジアでは、日本の兵隊が行儀正しくしてたかっていうと、そんなことない。戦争犯罪も多くあったわけだ。だから、集まったリーダーたちからの不満もおおかった。なのになぜ強いて集まったか?
179
1946年に独立が約束されているのに、どうして日本の軍部と結んで独立をはかったんだ・・・・「あなたは植民地の人間の心情がわかっていない」・・・・植民地の人間としては、アメリカの約束はあてにできない。それはフィリピンのそれまでの歴史が証明していて、我々は何回も独立を約束されたが、すべて実現していない。・・・独立のチャンスがあればそれこそ悪魔とでも手を結ぶ・・・・
ということだ。
それまでの欧州の植民地のやり方がひどすぎた。アヘン戦争を始め、ベンガルの英軍による大量虐殺、豪州によるアボリジニの虐殺、オランダによるインドネシア人の半奴隷化などなど・・日本は日本で大義がほしい、アジア諸国はどんなチャンスでもつかんで独立したい。
インドシナ侵攻について、
219
すでにフェリピンを制圧したアメリカ軍が次期目標として仏印を目指すことをおそれた日本軍はついに昭和20年3月「明号作戦」を発動」・・・
従来の通念と異なって仏印武力処理を熱心に主張していたのは、陸軍ではなく、外務省であった。・・・外務省のアジア解放の理念からすれば仏印における植民地権力の温存は、大東亜政略の明かな矛盾なのである。
では、うまく大義を貫徹したか?
インドシナ仏軍最高司令官モルダンに言わせると、
220
もし、1944年に日本が強力だが善意あるリーダーとしてインドシナに現れ、フランスを打ち破った後に、日本による独立という美名のもとヴェトナム人との協力を申し出ていたら、私はインドシナにおいけるフランスの将来に絶望していたところであろう。ところが、不可解のことに日本は圧制者フランスと交渉した。
全般的にみて日本はフランスに対して、少なくとも表面上はかなりの尊敬さえ氏名sた。それに反して現地人、特に安南人に対しては、不器用な胎動ととった。
これじゃあなあ。
おれは、第2次大戦に対して疚しさを感じる世代でも、また戦時中の宣伝文句を信じて美化したい、と思うものでもない。
負けたから悪い、アジアを侵略したから悪いーーー両方とも正しいが、それだけでは何か足りない。なにを日本は見誤ったのか、何を見通すべきであったのか、そこらへんが知りたい。そこらへんが現代に通じる問題でもある。
日本は植民地支配最後のターゲットになった、だからこそ、自存自衛の戦いが必要だった、というのは一理ある。一理あるが、しかし、もちろん、だからといって、欧米をまねてアジアを侵略してよかったか、というとそうじゃない。
始める前から戦略も欠けていた。そして、なによりも大義も欠けていた。、美名と言われようが、きれい事と言われようが、それは必須である。アメリカはそれがうまい。また、大義を貫くフェアプレーもかけていた。そして、その大義を貫くフェアプレーも必要だった。現地の人々から信頼を得るような所作も欠けていた。確かに一部に日本の友情を示す行為もあったが、しかし、全般としてはやはり現地の人々の信頼を勝ち得るにはほど遠かっただろう。欧米の力に対抗するために欧米の不正なやり方に追随してしまった。大義とフェアプレーさえあれば負けていても尊敬は勝ち得ていたかもしれん。
いまの福田首相は大義がないーーー謝罪の気持ちからか、中国に低姿勢にでても、あれでは戦争からなにも学んでおらんな。
あの当時、先を見通していた人間として、石橋湛山があがるが、おれはもう一人、理想主義者でありまた現実主義者でもあった石原莞爾にも興味がある。
277ここで 石原莞爾 の話をしたいのですが・・・彼は満州国を「アジアのアメリカ合衆国にしたい」と考えた。・・・開戦の翌日にあたる12月9日・・・・「フィリピンは独立させるべきである。」と述べているんです。・・・・満州で働く日本人は日本国籍を捨てるべきである、と極論まではく・・・・
279
石原は開口一番「朝鮮は独立させなければならない
といった。
石橋のことだから、たんに理想主義からそういったわけではあるまい。