東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

浅草橋近辺の震災復興事業の図面

2012-12-31 19:03:23 | 中央区
以前、このブログで両国広小路のことを取り上げて、私製の重ね図を掲載してみたことがあったのだが、「東京・遠き近くを読む(30)帝都復興計画を読む」を書いた後に、都立中央図書館へ行く機会があり、太田圓三著「帝都復興事業に就て」も読むことが出来た。広範に渡った震災復興事業について、図面なども多用しながら、その意図するところを分かりやすく述べた内容で、興味深く読めた。大部ではないのだが、よくぞこれだけに事業の解説をまとめ上げたと思わされた。

その中に浅草橋周辺の図版があり、これをみると、震災前と今も残る新しい町並みがどう変わったのかが一目瞭然であったので、御覧頂こうと思う。破線で描かれているのが旧市街で、現在も余り変わっていない、震災復興後の町が実線で書かれている。



上の方に神田川が横方向に流れており、川沿いに柳原の通りがある。そして、木村荘八が三角原と書いていた緑地が、新しい道路に呑み込まれるようになっている。その下側に東西方向で大きな通りが横切っているのが、靖国通りである。この大通りに切り取られているのが、左側から、馬喰町三丁目、横山町三丁目、そして吉川町に、米沢町一丁目ということになる。

震災前の町名は通りに付けられていたので、馬喰町三丁目は斜めに左下へ向かう、路面電車の線路が書かれている通りの両側で、その右側が横山町三丁目ということになる。馬喰町三丁目と横山町三丁目が背中合わせになっているところが、今も残る新道通り。かつては、水路の上に板や石で蓋がされていたので、板新道(いたじんみち)とか石新道(いしじんみち)とか呼ばれていたそうだ。この辺りも町ごと削られて、道路に呑み込まれている。

さらに、横方向に伸びていた町が吉川町で、その吉川町の端っこに第八いろはという牛肉店があった。ここが木村荘八の生まれた家であり、兄の莊太も成長期を過ごした場所でもある。荘八は、震災復興後にこの地を訪れて、生家のあった場所が全く判別できなかったと書いているが、この変わり様では無理もないと思う。そして、この図面で靖国通りの中央にその辺りがあったことが偲ばれる。

震災復興で町が大きく変わったところは他にもあるのだが、こういった重ね図がまともに出ているところはほとんど無いので、貴重な資料だとおもう。都立公文書館などで調べれば、それともあちらこちらの正式な図面というのが存在しているのだろうか?

ということで、今年も一年更新を続けて、多くの方にご覧頂けたことを感謝したい。来年も更新を続けて、あちらこちらの町を歩き、いい町並みを見つけていければとも思っている。御覧頂いている方々にも、良き年が訪れることを祈って。

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